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「教会の伝道」

2024年11月4日

1.『証し-日本のキリスト者』

(1)今年の日本キリスト教書店大賞は、最相葉月著『証し-日本のキリスト者』(角川書店、2022年)が選ばれました。キリスト教書店大賞に、一般の出版社から出版された本が選ばれるのは、異例なことです。それだけこの書物が教会内外を問わず、多くの方に愛読されたことを現しています。何故、多くの方の支持を得られたのでしょうか。

   この書物が語っていることは、ただ一つのことです。「今日、この時代にあって、異教社会である日本において、何故、キリスト者として生きるのか」。この点に、多くの方が興味を抱いているからだと思います。その意味で、われわれキリスト者が、今日、この時代にあって、異教社会である日本において、キリスト者としていかに生きているかが問われています。言い換えれば、「証しの生活」です。

(2)この本に触発され、第一水曜日の聖書研究・祈祷会で、教会員の証しを行っています。その証しが会報「みち」に掲載されています。生けるキリストとの出会いを、自分の言葉で証しすることは大切なことです。

 

2.キリストの証人として、キリスト証言に生きる

(1)最近、鎌倉雪ノ下教会の川﨑公平牧師著『使徒言行録を読もう』(日本キリスト教団出版局、2024年)が出版されました。「新約聖書の中で、使徒言行録ほど面白い文書はないかもしれません」と語っています。使徒言行録は、最初の教会の伝道の姿が生き生きと証しされています。聖霊の注ぎによって誕生した教会に連なるキリスト者は、生けるキリストを証しする「主の復活の証人」「キリストの証人」(1・23)と呼ばれました。「キリストの証人」は日々の生活の中で、言葉を通し、生活を通して、「十字架につけられた主イエス・キリストは甦って、生きておられる」と証言しました。それこそが伝道であったのです。

   教会の迫害者であったパウロは、甦られた主イエス・キリストとお会いし、キリストを証言する伝道者として召されました。パウロのキリスト証言・信仰告白が、この言葉です。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」

(コリントの信徒への手紙一 15章3~5節)。

伝えられた「教会の信仰告白・キリスト証言」を受け継ぎ、伝道者パウロは自らの「信仰告白・キリスト証言」を加えて語ります。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」      (コリントの信徒への手紙一 15章8~10節)。

「教会の信仰告白・キリスト証言」に「わたしの信仰告白・キリスト証言」を加えた伝道者パウロの「キリスト証言」は、われわれの「キリスト証言」でもあるのです。

 

 

 

(2)使徒言行録3~4章で語られた、美しの門の前で起きた出来事がとても重要です。生まれつき足の不自由な男に向かって、ペトロは語りました。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」                    (使徒言行録3章6節)。

この「キリスト証言」こそ、教会の歩みを決定づける大切な言葉となりました。教会が語るべき伝道の言葉となりました。

しかし、この出来事が波紋を呼び、ペトロとヨハネはユダヤの議会に呼び出され、尋問を受けました。その時、ペトロは聖霊に満たされ、大胆にキリストを証言しました。

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。   (使徒言行録4章10~12節)

10年前、日本基督教団主催北陸伝道大会が金沢教会で開催され、200名以上の方が出席されました。講師は加藤常昭教師でした。当時の金沢教会主日礼拝で語られた加藤常昭教師の説教が、この御言葉でした。説教題は「この名のほかに救いはない」。加藤常昭教師が金沢教会で語られた遺言説教となりました。

伝道は、「キリストの証人」による「キリスト証言」です。「主イエス・キリストは甦って生きておられる。あなたもイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 

3.キリストの道を生きる

(1)大阪女学院の院長であり、玉出教会の長老であった西村次郎さんが、滝野川教会創立75周年記念礼拝で語った説教「わが墓標」(『ここに生きる-西村次郎伝』154~162頁、秋山操編、ヨルダン社、1983年)があります。遺言説教となりました。私は信徒が語った説教の中で、日本説教史に遺したい説教だと思っています。その中でこう語ります。

   「イエスさまと我々との関係の中に、『イエスさま、どうぞ私をあなたの墓標にして下さい。イエスさま、私はあなたの墓標です』という関係が成り立たねばならぬ。信徒一人一人の今日の生き様、その中にイエスさまが生きておられる。言わば、我々の生涯はキリストの墓標である。そこまでの信仰を持たねばならぬ。どうか我々の生涯に、キリストをうつしていきたい。キリストのいのちをそのまま、我々の生涯を通して証しをしていきたい。『イエスさま、どうか我々をあなたの墓標にして下さい。我々はあなたの墓標になりたい』という祈り、願い、努力を熱くしてゆかねばならぬと思います。

 キリスト教というものは教えとして日本にも世界にも伝わって来なかった、『道』として伝えられた、使徒行伝でもキリスト者は『道の人』(使徒言行録9章2節,18章25節,26節,19章9節,23節,22章4節,24章14節,22節)と呼ばれた。この『道』というのは生活の仕方のことで、生活の仕方でキリスト者であることがわかったのです。『あの教えを信じている人』というのではなく、『ああいう生活をしている人』ということで、その人がキリスト者であることが証しされたのです。生活のあり方、毎日毎日の私たちの生き様、それがそのままキリストを証ししておるという生き方です。キリスト教徒にはそれ程はっきりした生き様がなければならんし、またそう生きることが信徒の本当の生き方であると思うのです。

   キリスト教会に力がない、教勢が仲々伸びないと言われます。しかし、それは信徒がその生活の証しをしておらないからではないでしょうか。私たちは今日、果たして本当にキリストを証ししておるでしょうか」(同上、156~157頁)。

 

(2)教会は「キリスト道」を生きるキリスト者の証しの群れです。私たち一人一人は、生ける神の霊によって心の板にキリストの言葉が記された「キリストの手紙」です。

  「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨で

はなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(コリントの

信徒への手紙二3章3節)。

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