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「主に献げて歩む神の民~礼拝・奉仕・献金~」

2023年5月28日

第140回信徒セミナー

 

「主に献げて歩む神の民~礼拝・奉仕・献金~」

 

金沢教会牧師 井ノ川 勝

 

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリントの信徒への手紙二8章9節)

 

1.はじめに

今回のセミナーの主題「礼拝・奉仕・献金」は、私どもの教会生活で欠かせないもの。「礼拝」「奉仕」「献金」に共通するものがある。それは「献げる」「献身」。私どもの信仰の大切な要素に、「献げる」「献身」がある。しかもそこで更に大切なことは、個々の「献げる」「献身」ではなく、神の民として、主に献げて歩むこと。神の民としての「献げる」「献身」が問われる。

 

2.礼拝・奉仕・献金

「礼拝」「奉仕」「献金」が、聖書でどのように語られているのかを確認しよう。

(1)礼拝

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 「礼拝」は、私どもが自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること。主の日の朝、私どもは「体」も「心」も「時間」も、すべてを主に献げて礼拝を行う。

 

(2)奉仕

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」(ローマの信徒への手紙12章4~8節)

 教会はキリストの体、私ども一人一人はキリストの体に連なる部分(肢体)。一つ一つの部分(肢体)はそれぞれ異なった働きをする。それぞれが神から与えられた異なった賜物を持っている。その賜物を主から与えられた恵みに応じて神に献げて、それぞれが奉仕を行う。「奉仕」は、主から与えられた賜物を主に献げることである。

 

(3)献金

「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(コリントの信徒への手紙二8章1~7節)

 コリントの信徒への手紙二8~9章は、伝道者パウロの「献金の神学」「献金の信仰」が集中して語られている。聖霊降臨により誕生したエルサレム教会は、すべての教会の母なる教会である。しかし、そのエルサレム教会が財政的な困難に直面した。そこで伝道者パウロが、マケドニア州の諸教会に、エルサレム教会への支援、献金を呼びかけた。マケドニア州の諸教会も、財政的には決して豊かではなく、試練の中に置かれていた。しかし、エルサレム教会を覚えて祈り、それぞれの力に応じ、また力以上に、惜しみなく献げてくださった。惜しまず献げることにより、彼らの方が豊かになった。

 礼拝における献金の祈りに、「献身のしるしとして献金をささげます」とある。献金は「献身のしるし」、私自身を献げること。重い言葉である。その聖書的典拠がここにある。「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(コリント二8・5)。

 

(4)私たちの主への献身

 以上、見てきたように、「礼拝」「奉仕」「献金」は、主への「わたしたちの献身」である。

 

3.神の献身

(1)主の恵みに対する感謝の応答

 伝道者パウロはコリントの信徒への手紙二8~9章で、「献金の神学」「献金の信仰」を語った。そこで驚くべきことを語っている。「献金の神学」の根拠は、主に献げる私どもの行為にあるのではなく、主が私どもに献げられ愛の行為にあると語る。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためであったのです」(コリント二8・9)

 神の豊かさに満ち溢れていた神の御子、主イエス・キリストが、その豊かさを一切捨てて、私どものために貧しくなられた。その主の貧しさによって、私どもは主に恵みに溢れて、豊かにされた。主イエス・キリストの十字架の出来事を、このような経済的な表現で示した。「主の献身」が、「私どもの献金」の根拠であることが強調されている。

 伝道者パウロが「礼拝」「奉仕」「献金」を語る時、「神の憐れみによって」「与えられた主の恵みによって」「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている」と必ず語る。「礼拝」「奉仕」「献金」は、主の恵みに対する「感謝の応答」であることが強調される。

 

(2)神の献身・神の奉仕

 英語で礼拝は「サービス」と言う。私どもが神へ奉仕するという意味なのか。ドイツ語で礼拝は、「神の献身」「神の奉仕」と言う。「礼拝」は、「神の献身」「神の奉仕」である主イエス・キリストの十字架の恵みを、身と魂で味わい知ることである。その主の恵みの感謝の応答が、主に対する私どもの礼拝、奉仕、献金を生み出す。信仰生活は、主の民として、献げる喜びに生きることである。主の恵みから生み出される喜びの礼拝が、喜びの奉仕、献金へと繋がって行く。主に献げて歩む民として、喜び歩調を合わせて進もう。

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