1.供え物をするよりも、聞き従う方がよい
(1)コヘレトの言葉4~5章は、「太陽の下での虐げ」が主題となっています。私どもが生きる太陽の下で、様々な理解できない不条理な出来事があります。コヘレトは何故、そのようなことが起こるのかと問いかけながら、痛烈な社会批判をしています。①4章4~12節が社会批判、②4章13~16節が政治批判、③4章17節~5章6節が祭儀批判です。コヘレトの当時の社会への批判は、今日の社会、私どもへの批判と通じ合うところがあります。本日は4章17節~5章6節の祭儀批判です。
(2)17節「神殿に通う足を慎むがよい」。コヘレトは神殿に通うこと、神を礼拝することに否定的なのではありません。聖書協会共同訳はこう訳しています。「神殿に行くときには、足に気をつけなさい」。コヘレトが問いかけているのは、神を礼拝する姿勢です。「悪いことをしても自覚しないような愚か者は、供え物をするよりも、聞き従う方がよい」。これはどういう意味でしょうか。コヘレトの祭儀批判の要点はどこにあるのでしょうか。しばしばこの御言葉との関連で取り上げられるのが、サムエル紀上15章22節です。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえよりまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」。サムエルは預言者の魁けです。後の預言者の厳しい祭儀批判に通じるところがあります。主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえではなく、主の御声に聞き従うこと。礼拝には二つの要素があります。犠牲のいけにえを献げる祭儀と、主の御声、律法に聴き従うことです。預言者は主の御声、律法に聴き従うことを重んじました。それではコヘレトはどうなのでしょうか。コヘレトも預言者と同じ立場なのでしょうか。コヘレトは犠牲のいけにえを献げる祭儀を通して、主の御声、律法に聴き従うことは一つのことと受け留めています。コヘレトが批判しているのは、犠牲のいけにえを献げる祭儀をしても、主の御声、律法に聴き従わない者たちへの批判です。
2.神を畏れ敬え
(1)5章1節「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな」。犠牲のいけにえを献げる祭儀を通して、神の御前で様々な願い事を述べます。しかし、礼拝は私どもが神に語りかけるよりは、まず神の御声に聴くことにあります。「神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」。神は天にいまし、あなたは地上にいる。太陽の下にいる。天と地の隔たり、神と私どもとの隔たりが語られる。しかしどれだからこそ、天地を創造し、支配される神が、地上を生きる私ども、太陽の下で生きる私どもに何を望んでおられるのか、神の御前で聴き従うことが求められる。神の御前では言葉数を少なくせよ。
2節「夢を見るのは悩みごとが多いからだ。愚者の声と知れるのは口数が多いからだ」。コヘレトは夢を見ることに否定的です。現実を見ることに徹しています。口数が多い人が必ずしも賢者とは言えない。むしろ愚者の証拠でもある。黙って現実をしっかりと見る。ダニエル書のように、夢を通して将来起こることを神から啓示を受け、知恵で解き明かすことに、コヘレトは批判的です。
(2)3節「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ」。神の御前で誓ったら、それを果たすことが求められます。申命記23章22節の御言葉です。「あなたの神、主に請願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである」。主イエスも山上の説教で語られています。マタイ福音書5章33節「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である」。
4節「願をかけておきながら誓いを果たさないなら、願をかけない方がよい。口が身を滅ぼすことにならないように。使者に『あれは間違いでした』などと言うな。神はその声を聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼされるであろう。夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え」。神の御前に立つ礼拝においても、太陽の下で生活する時も、「神を畏れ敬え」。これこそがコヘレトが強調する信仰です。3:14,7:18,8:12~13,12:13。
3.太陽の下に、大きな不幸があるのを見た
(1)5章7~16節は4章1~3節に対応しています。全体の主題「太陽の下での虐げ」が掲げられ、全体の枠組みとなっています。7節「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな」。コヘレトは太陽の下での貧しい人の虐げ、不正な裁き、正義の欠如を、しっかり見ることを勧める。「なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから」。当時の政治家、官僚批判です。汚職、不正疑惑、隠蔽。しかし、今日にも通じるところがあります。8節「何にもまして国にとって益となるのは、王が耕地を大切にすること」。何よりも国に益となるのは、神から賜った農地を大切にすること。
9節「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ」。貪欲の罪は決して満足をもたらさない恐ろしさがある。貪欲の奴隷になってしまう空しさがある。10節「財産が増せば、それに食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない」。11節「働く者の眠りは快い、満腹してもいても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていても眠れない」。
12節「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た」。6章1節でも同じ言葉が繰り返される。「富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない」。コヘレトの時代の市場経済が反映しているとも言われる。莫大な富を得ても、投資に失敗して、無一物になる。14節「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない」。ヨブ記1章21節と響き合います。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。
16節「その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない」。
(2)5章17~19節は、4章~5章の「太陽の下での虐げ」の結びです。ここにコヘレトが強調する「飲み食い賛美」が語られます。既に、2章24~25節、3章12~13節で語られました。それが三度繰り返されます。しかもここでは、「神」という言葉が4回繰り返されます。そこにこの「飲み食い賛美」の特徴があります。
17節「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」。ここにコヘレトの幸福論が語られます。神から与えられた短い人生の日々に、ささやかな家族、友人との飲み食いを感謝し、与えられている全てのものに満足し、感謝して生きることこそ幸いである。コヘレトはダニエル書のように、終末の望みに生きません。神から与えられた太陽の下、短い人生の日々の集中し、そこに与えられた恵みに満足し、感謝して生きることを重んじます。
18節「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ」。太陽の下、たとえ労苦と試練と苦しみに満ちた日々であっても、全ては神の賜物、与えられた恵みに感謝して生きる。「神の賜物」という言葉が強調されています。3章13節の「飲み食い賛美」にも用いられていました。2章24節の「飲み食い賛美」では、「神の手からいただくもの」とありました。19節「彼はその人生の日々をあまり思い返すことはない。神がその心に喜びを与えられるのだから」。人生の過去の日々を思い返し、後悔に満たされて生きるのではなく、今、神が与えて下さったものに感謝して生きよう。
(3)ペシャワール会の中村哲医師が『医者井戸を掘る』で、神から与えられた自らの使命を語りました。治療よりも先ず井戸を深く掘り、水を飲ませ、生きて行く最低条件を確保する仕事に献身しました。志半ばで銃弾に倒れましたが、中村哲医師から教えを受けたアフガニスタンの人々が志を受け継いでいます。旧約聖書の信仰に、「砂漠に井戸を掘れ」があります。井戸を深く掘れば掘る程、水源に達し、豊かな命の泉が湧き出て来ます。カルヴァンは「恵みを掘り出す祈り」を強調しました。日々の現実は神の恵みが見られない禍、不幸、労苦の日々。しかし、私どもは祈りによって恵みを掘り出すのです。神は日々の歩みの中に、必ず恵みを備えて下さっている。ただそれが目には見えない。だから祈りによって恵みを掘り出すのです。北森嘉蔵牧師が東京神学大学の卒業式の後の卒業生壮行会で、お祝いの言葉を語られました。「あなたがた伝道者の使命は、聖書深く掘りなさい。深く掘れば掘る程、溢れんばかりの豊かな命の泉が湧き出て来る。日々の生活の中で、教会員と共に御言葉を深く掘りなさい」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月28日の祈り ローマ8・19,21
「主なる神よ、われらが栄えるようにと創造のみわざによってわれらに見せてくださるすべてのことを感謝します。あなたの知恵と力とを、人間のことがらにおいても明らかにし、死や破滅がその宿望を果たすことなく、あなたの善き、恵みの意志が行なわれるようにしてください。われらの時代に、あなたが強いのであって、人間ではなく、あなたが約束してくださった善を、結局は完全に果たしてくださるのだということを経験させてください。それはあなたの日のことです。正しい、聖なる存在をもたらし、あなたの大いなるあわれみによってすべての悲惨に助けが与えられるようになる日です。今まで守ってきてくださったように、われらを守り、こよいもみ守りを得させてください。不幸な時にもみ心を行ない、天に行なわれるように地にもみ心が行なわれるようにしてください。アーメン」。