1.あなたは冷たくもなく熱くもない、むしろ、冷たいか熱いか、どちらかにしてほしい
(1)ヨハネの黙示録はローマ帝国の迫害の時代、伝道者パウロがアジア州にある7つの教会に宛てた手紙です。本日は7番目の教会、ラオディキアにある教会に宛てた手紙です。1番目の教会であるエフェソから東に150メートル程離れた所にあります。ラオディキアという地名はコロサイの信徒への手紙4章15~16節に出て来ます。コロサイの教会はラオデキァの教会の近くにありました。「ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしくお伝えください。この手紙があなたがたとところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」。
この手紙を語っているのは、伝道者ヨハネです。同時に、主イエス・キリストです。こういう言葉で主キリストを紹介しています。14節「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」。「アーメン」という言葉は、「真実」「誠実」「確実」という意味です。主キリストこそ、「アーメンである方」、「誠実で真実な証人」である。また、「神に創造された万物の源である方」である。これらの言葉はイザヤ書65章16~17節が基になっています。「この地で祝福される人は、真実の神によって創造され、この地で誓う人は真実の神によって誓う。初めからの苦しみは忘れられる。わたしの目から隠されている」。「真実の神」が「アーメンである神」です。17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する」。「アーメンである神」「真実の神」が、私どもを新しく創造して下さる。このような主キリストが語りかける。
(2)15節「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。ヨハネの黙示録の中で、最も知られている御言葉の一つです。厳しい言葉です。主キリストはラオディキアの教会員の信仰を温度で測っています。「あなたの信仰は冷たくもなく熱くもない。なまぬるい。喉が渇いている時に潤してくれるのは、熱いお茶です。汗びっしょりかいている時には、冷たい水が渇きを癒します。そのような時に、なまぬるい飲み物を出されたら、口から吐き出したくなってしまいます。主キリストは語られます。「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。私どもの自らの信仰が問われています。私の信仰は熱いとも言えない。そうかといって冷たいとも言えない。その中間です。しかし、主キリストは信仰がなまぬるければ、口から吐き出すと言われる。私どもの信仰は主キリストにとって、どのような味わいのある信仰なのかが問われています。
聖餐が行われる礼拝で朗読される御言葉があります。詩編34編9節です。「味わい見よ、恵み深さを」。この御言葉と響き合うのは、ペトロの手紙一2章3節です。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」。私どもの信仰は、聖餐に与ることなくして味わい深さが生まれません。繰り返し聖餐を通して、主の恵み深さを味わう。そのことを通してのみ、私どもの信仰の味わい深さが生まれて来るのです。
2.火で精錬された金、身に着ける白い衣、目に塗る薬を買うがよい
(1)主キリストは私どもの信仰のなまぬるさがどこから生まれるのか、その理由を語られます。17節「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」。ラオディキアは商業都市で栄えた町です。銀行が幾つもあり、金融業が盛んだった。また、毛織物の産地でした。ラオディキアの黒い織物と呼ばれていました。更に、目薬の生産でも良く知られた町でした。医師を育てる学校もあり、製薬業が盛んでした。ラオディキアの目薬として有名でした。豊かな町でした。この町は政治的にあまり重要でなかったため、他の町のように皇帝礼拝が強要されるという緊迫した事態があまりなかったのかもしれません。そのため信仰のなまぬるさが生まれていたのかもしれません。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」。ラオディキアの教会員はそう語る。
しかし、主キリストは語られます。「あなたは自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」。主キリストのまなざしに映る私どもの現実の姿です。伝道者パウロの言葉を想い起こします。ローマの信徒への手紙7章24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。私は「罪の法則」に縛られている。『ハイデルベルク信仰問答』はこの御言葉からこういう問答を導き出しました。神の律法は「神を愛すること」、「自分を愛するように隣人を愛すること」を求める。しかし、私どもは生まれつき、神と隣人を憎む傾きを持っている。愛することにおいて知る罪の傾きを、「人間の惨めさ」と言い表しました。
(2)一体どうしたら惨めさから救われるのか。主キリストは語られます。18節「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」。主キリストは私どもが惨めさから解き放たれて、真実の豊かさに生きることができるように、招いておられます。「火で精錬された金」「身に着ける白い衣」「目に塗る薬」を買いなさい。一体誰から買うのか。主キリストからでしか買うことが出来ません。「火で精錬された金」。ペトロの手紙一1章7節「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。試練という篩にかけられ、私どもの信仰から不純物が取り除かれ、主キリストへの純粋な真っ直ぐな信仰が残る。「身に着ける白い衣」。ヨハネ黙示録7章14節「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。十字架につけられた小羊キリストの血で洗えば、衣は赤くなる。しかし、罪が洗われ白くなる。「白い衣」は殉教者の衣を意味しました。「目に塗る薬」。主キリストの御霊と御言葉という目薬により、見るべきものが見えるようになる。「火で精錬された金」「身に着ける白い衣」「目に塗る薬」。これらのものは主キリストが値なしに、ただ恵みによって与えて下さるものです。
3.見よ、わたしは戸口に立って、たたいている
(1)19節「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に務めよ。悔い改めよ」。箴言3章12節「かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」。伝道者ヨハネは箴言の父の愛を、友人としての愛に言い換えている。「友人としての愛」という言葉を用いている。ヨハネ福音書15章15節、洗足の場面で主イエスは弟子たちに語られた。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。
主キリストは友として訪問して下さる。20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。ヨハネ黙示録の中でも知られている御言葉です。絵に描かれる印象深い場面です。ヨハネ福音書20章19節で、甦られた主キリストが、家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちを訪ねられ、中に入られました。弟子たちは絶望し、信仰が冷え切っていた。そこに主キリストが訪れた。しかし、黙示録では、主キリストは戸口に立って、戸を叩かれています。家の中にいる私どもが主キリストの声を聴き、応えることを待っておられるからです。主キリストが家に中に入ったら何をされるのか。私どもと共に食事をして下さる。主キリストの恵みを味わわせて下さる。エマオへ向かったクレオパと妻は、近づき、共に歩み、御言葉を説き明かして下さった甦られたキリストを家に招き、共に食卓に与った。主キリストが卓主となられた。その時、目が開かれ、甦られた主キリストであることが分かった。見えるようになった。この食卓は聖餐の食卓を現している。
(2)21節「勝利を得る者を、わたしは自分の座に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共に玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。主キリストにあって勝利を得る者は、主キリストの勝利の座に座らせて下さる。21章3節を指し示しています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」。神の国は神と共に食卓に与る幻が語られている。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月8日の祈り ヨハネ5・24
「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。あなたはわれらにイエス・キリストのみ名を与えてくださいました。キリストのことばは今日に至るまで生きて、変わることがありません。あなたは常にキリストのことばをいのちあるものとし、イエス・キリストのみ名によって、全能の神であり在天の父であるあなたに、歌ごえが、歓喜の声が捧げられるようにしてくださるのです。われらすべてをおぼえてください。われらが抱く困窮のひとつひとつをおぼえてください。イエス・キリストのことばを通じてこの世の中にいてください。あなたの力強いみ使いとしてキリストのことばがゆきめぐり、多くの心の中に届き、これを立ちあがらせ、慰め、助けを与え、必要な奇跡を行なうようにしてください。この強く、力あるイエス・キリストのことばによってみ名がたたえられますように。アーメン」。