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2023年10月4日

「ヨハネの黙示録を黙想する5~勝利を得る者には白い小石を与えよう~」

ヨハネの黙示録2章12~17節

井ノ川勝

1.わたしはあなたの住んでいる所を知っている

(1)ヨハネの黙示録はローマ帝国の迫害の時代、伝道者ヨハネがパトモスの島からアジア州にある7つの教会に宛てた手紙です。本日は第3の教会、ペルガモンにある教会に宛てた手紙です。ペルガモンはアジア州の都であったと言われています。町の規模としては、これまで見て来たエフェソ、スミルナの方が大きいのです。それなのに何故、ペルガモンが都となったのか。それは歴代のローマ皇帝がしばしば滞在し、ローマ皇帝を祀る神殿があったからです。皇帝礼拝はこのペルガモンから生まれたと言われています。また、異教の神々を祀る神殿も多くありました。そのような町に、教会が誕生しました。一体、当時のキリスト者はどのような教会生活をしていたのでしょうか。ヨハネの黙示録は「主の日」(1・10)の礼拝から生まれました。パトモスの島で礼拝をしていた伝道者ヨハネに、甦られたキリストが現れ、語られた言葉、見させた幻を記したものです。そして主の日の礼拝で、読まれた手紙です。教会は主の日の礼拝で、何をしていたのでしょうか。使徒言行録20章7節に、「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた」。週の初めの日の主の日、朝に夕に、教会員の家に集まり、「パンを裂いた」、聖餐を行った。そして説教を聴きました。黙示録の手紙は、聖餐が行われた主の日の礼拝で、読まれました。

 ローマ皇帝を祀る神殿があり、異教の神々を祀る神殿が建ち並ぶ中で、ペルガモンのキリスト者は教会員の家に集まり、聖餐に与り、御言葉を聴き、主キリストにある交わりを形造って行きました。そのようなペルガモンにある教会に宛てられた手紙は、こういう言葉から始まっています。「ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」』。「わたし」は、伝道者ヨハネであり、甦られたキリストです。わたしはあなたがどのような所に住み、教会生活をしているのか知っていると、キリストは語られるのです。これは慰めです。伊勢神宮の町で、キリスト者が教会生活を送っている。真宗王国と言われる浄土真宗が強い地で、キリスト者が教会生活を送る。異教の地で教会生活を送る。そこには様々な信仰の戦いがあります。そこで信仰を貫くことは困難が伴います。しかし、キリストが、わたしはあなたの住んでいる所を知っていると語られる。そこに慰めがあります。

(2)「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」。「サタンの王座」とは何でしょうか。サタンは私どもを神から引き離す存在、力です。ローマ皇帝を神として崇める皇帝礼拝、異教の神々を神として祀る偶像礼拝が行われていることです。「しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を棄てなかった」。「わたしの忠実な証人アンティパス」は、ペルガモンの教会の殉教者です。使徒言行録7章には、最初の殉教者ステファノの名が記されています。それと並んでアンティパスの名が記されています。「わたしの忠実な証人」。「証人」という言葉から「殉教者」が生まれました。ペルガモンの小さな教会の群れから、皇帝礼拝を拒否し、アンティパスが殺される。これは衝撃的な出来事です。しかし、ペルガモンの教会員は、「わたしの名をしっかり守って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。キリストへの忠誠を守り通した。

 太平洋戦争中の教会を想い起こします。神国日本の国家神道の中心であった伊勢神宮の前にある山田教会、真宗王国の北陸の地にある金沢教会。国家総動員法により、教会も国家と一体となることを強要されました。礼拝の初めに宮城遙拝があり、天皇を神として拝む行為が強要されました。礼拝に集う教会員の数が減る中で、冨山光慶牧師、上河原雄吉牧師は僅かな人数で、教会を守り、キリストへの忠誠を貫きました。

 

2.わたしの口の剣でその者どもと戦おう

(1)14節「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある」。最初に教会の良い点を数え、次に教会の問題点を数えます。「あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった」。「バラム」は民数記22~24章に登場します。イスラエルの民がエジプトを脱出して、約束の地を目指して旅をし、死海の東側モアブの地を通ろうとしました。その時、モアブの王バラクが預言者バラムに、イスラエルの民を呪ってほしいと命じました。ところが、バラムはイスラエルの民を呪うどころか、祝福してしまった。しかし、民数記31章16節で、モーセはこう語っています。「ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか」。バラムに唆されたペオルの事件とは何でしょうか。民数記25章1節以下で、イスラエルの民がモアブの娘たちに従って背信の行為をした。モアブの娘たちが自分たちの神々に犠牲を捧げた時、イスラエルの民を招き、共に食事に加わり、娘たちの神々を拝んだ。イスラエルの民はペオルのバアルを慕った。主は激しく憤られた。ヨハネの黙示録が語っているのは、この出来事です。ペルガモンの教会に、「バラムの教えを奉ずる者」がいた。異教の神々を奉ずる行事に参加し、食事に加わり、異教の神々を崇める。異教の地にある教会は常にこのような誘惑の中にあります。

(2)ペルガモンの教会にあるもう一つの問題点は15節。「同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる」。「ニコライ派の教えを奉ずる者たち」はどのような者かは分かりません。使徒言行録6章5節に、初代教会が選んだ7名の執事の名が記されています。ステファノから始まり、7番目が「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」です。この「ニコラオ」(ニコライ)と「ニコライ派の教えを奉ずる者たち」と関係があるのかどうかも、確かなことは分かりません。教会の中から、異なる福音を伝える者が生まれました。教会は皇帝礼拝という外からの迫害、異教の神々の行事への外から誘惑とともに、教会の内からも異なった福音の誘惑という二重の誘惑の中にあったのです。

 そのような誘惑の中にあるペルガモンの教会員に向かって、伝道者ヨハネは語ります。16節「だから、悔い改めよ」。主に立ち帰れ。主の食卓に立ち帰れ。主の食卓・聖餐に与ることにより、あなたがたの信仰を立て直せ、堅くせよ。「さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」。ペルガモンの教会に宛てた手紙は、このような言葉から始まっていました。「鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる」。甦られたキリストを表す言葉です。主の日、パトモスの島で礼拝していた伝道者ヨハネに、甦られたキリストが現れた時、このような姿でした。1章16節「口からは鋭い両刃の剣が出て」。口から鋭い両刃の剣が出ているキリスト。それは御言葉のみを武器として戦うことを表しています。ヘブライ人への手紙4章12節の御言葉と響き合っています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。エフェソの信徒への手紙6章17節「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。

 

3.勝利を得る者には隠されていたマンナ、白い小石を与えよう

(1)17節「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれも分からぬ新しい名が記されている」。教会は地上にあっては戦いが続きます。しかし、主イエス・キリストが必ず勝利を与えて下さる。ご褒美を備えて下さる。一つは「隠されていたマンナ」。出エジプト記16章で、エジプトを脱出し、荒野へ導かれたイスラエルの民に、主が朝毎に天から降らせたマンナで養われた。「マンナ」は「これは一体何だろう」(15節)から生まれた言葉です。主イエスは語られました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。聖餐の招きの言葉となりました。主イエスこそ天から降って来たマンナであり、私どもを永遠に生かして下さる。

(2)「白い小石」とは何でしょうか。裁判官が判決を下す時、箱の中に入れた小石の色で表しました。被告は自分の手でその小石を取り出した。白い石は無罪放免を意味した。自由を与える罪の赦しのしるしを意味した。白は勝利、純潔を表します。その白い小石に「新しい名」が記されている。どのような名なのか。「あなたはキリストの者」。私どもが洗礼を受けることは、「新しい名」が与えられることです。新しい誕生日です。「あなたはキリストの者」。これが洗礼を通して、私どもに与えられた新しい名です。永遠に消えることのない名です。「あなたはキリストの者」、この「新しい名」が記された白い小石を手にして、私どもは誘惑の多いこの地上の旅を、教会の仲間と共に歩んで行くのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 10月4日の祈り マルコ7・34~35

「在天の父よ、われら人の子たちは貧しく、耳が聞こえず、口もきけません。しかしあなたがわれらを日ごとにめざめさせ、『エッファタ』ということばを聞かせてくださいます。それゆえにわれらは感謝し、あなたがわれらにしてくださることをよろこびます。われらの主イエス・キリストの大いなる終末を待望することにおいてわれらをひとつのものとなりうるように、われらを助けてください。キリストがあなたの子として、救い主として、すべての人間のまえに義とされるようにしてください。全能者なるあなたは救い主においてわれらにお会いくださるのです。この救い主によって、全能者なるあなたは、新しく語られるのです。光あれ、と。生きよ、と。死の闇から生命が生まれよ、と。そしてキリストがすべての人間の救い主となるようにしてくださるのです。なお最も深い闇の中に立つものの救い主ともなるようにしてくださるのです!在天の父よ、み名が崇められますように!アーメン」。

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