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2024年9月11日

「ヘブライ人への手紙を黙想する14~しかし今、わたしたちの大祭司は更にまさった契約の仲介者になられた~」

ヘブライ人への手紙8章1~13節

井ノ川勝

1.わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて

(1)ヘブライ人への手紙は礼拝において語られた説教であると言われています。従って、説教者の心を知ることが出来ます。説教者はいつも自分を通して語られた言葉が、会衆に届いたかどうかを吟味しながら説教しています。8章の冒頭の言葉も説教者の心が現れています。「今述べていることの要点は」。「今述べている要点」とは、7章で語って来たことです。主イエスは、アブラハムの時代、ただ一度現れて、消えて行った大祭司メルキゼデクに等しい大祭司である。そこで少々込み入った説き明かしをした。会衆が説教についてこれただろうか。そこで説教者は「今述べている要点は」と語り、説教の主題は「わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて」、これが主題であることを確認し、別の視点からこの主題を巡って語り直そうしているのです。それが8章の御言葉です。

(2)1節「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所または真の幕屋で、仕えておられるということです」。

 主イエスは今どこにおられるのか。植村正久牧師は試問会で、これが信仰の要点であるとし、洗礼志願者に問いました。ヘブライ人への手紙の説教者は語ります。主イエスは大祭司として、天におられる大いなる父なる神の玉座の右の座に着き、主がお建てになった聖所、真の幕屋で仕えておられる。「使徒信条」の「主イエスは天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる」。昇天されたキリストは何をされておられるのか。主イエスは父なる神の玉座の右の座に着き、天の幕屋で仕えておられる。「仕えておられる」という言葉は、礼拝しておられるという意味です。礼拝は何よりも祈っておられる。執り成しの祈りを捧げておられることです。それが大祭司イエスの務めです。

                                                                   

2.しかし今、わたしたちの大祭司は更にまさった契約の仲介者になられた

(1)3節「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」。大祭司は神の民を代表して、神の御前に立ち、犠牲の動物を供え物として繰り返し神に献げます。それに対し、大祭司イエスは供え物として何を献げられたのか。既に7章27節で語られていました。

「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」。大祭司イエスは御自分を十字架でただ一度、いけにえとして献げられた。

 4節「もし、地上におられたのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」。地上の祭司は律法に従って神に供え物をします。しかし、大祭司イエスは律法に従う祭司とは全く異なる存在です。

 5節「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」。地上の祭司は、天にある聖所、幕屋の写し、影である地上の聖所、幕屋で仕えています。地上の聖所、幕屋は、天の聖所、幕屋を映し出し、指し示しています。神がシナイ山で、モーセに命じました。「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」。出エジプト記25章40節の御言葉です。出エジプト記25~31章は「幕屋建設の指示」がなされています。神を礼拝する地上の幕屋、礼拝堂建設の設計図です。

(2)6節「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者となられたからです」。説教者は語ります。「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます」。主イエスは「わたしたちの大祭司」。地上の祭司よりも遙かに優れた務めを神から与えられた大祭司。ここに説教者が強調する信仰告白があります。8章で注目すべきは、「イエス」という言葉が用いられていません。「このような大祭司」「わたしたちの大祭司」と語っています。地上の祭司は、シナイ山でモーセを通して神と結んだシナイ契約に基づいて、幕屋を建設し、神に供え物を献げ、礼拝を行います。しかし、私たちの大祭司イエスは、約束に基づいて制定された、更にまさった「契約の仲介者」「契約の仲保者」となられた。ここに、8章の主題が語られます。主イエスが私たちの大祭司であられることは、「新しい契約の仲保者」となられたことにあるからです。

 7節「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」。「あの最初の契約」はモーセが仲保者となったシナイ契約です。「第二の契約」は大祭司イエスが仲保者となる「新しい契約」です。

 

3.見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る

(1)8節「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる」。8章の後半は、エレミヤ書31章31~34節の引用です。新約聖書の中で最も長い引用です。説教は聖書を説き明かすことが目的です。初代教会の聖書は旧約聖書です。その要点が、「新しい契約」を語るエレミヤ書31章31~34節の御言葉です。旧約聖書の中で唯一「新しい契約」が語られる重要な箇所です。

 エレミヤ書は「預言者の言葉を黙想する」という主題で学びをしました。エレミヤがこの御言葉を語った時、南王国ユダは滅ぼされ、都エルサレムは陥落し、地上の聖所、幕屋であったエルサレム神殿は崩壊していました。ユダの民はバビロンで70年に及ぶ捕囚生活をしていました。将来への望みが全く絶たれた中にいました。神はわれわれを見捨てられたのではないか。絶望と諦めが蔓延していました。そのような状況で語られた神の御言葉です。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」。分裂し、滅んだ北王国イスラエルと南王国ユダとを統一する「新しい契約」を神は結ばれると約束されています。

 9節「『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしは彼らを顧みなかった』と、主は言われる」。エジプトを脱出し、荒れ野の40年の旅を導いたのは、シナイ契約でした。しかし、イスラエルの民は神と結んだ契約に忠実ではありませんでした。ことごとく神に反抗する頑なな民でした。

(2)10節「『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』」。シナイ契約は石の板に神の言葉が記されました。しかし、新しい契約は心の板に神の言葉を刻み付けます。消すことの出来ない霊の文字です。そのようにして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる、新しい契約が結ばれる。

 11節「彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。小さい者から大きな者に至るまで、彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。子どもにも、大人にも、それぞれの心の板に霊の文字が記されているから、「主を知れ」と教える必要はない。皆、主を知り、主に生かされているからである。

 13節「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。私たちの大祭司イエスが契約の仲保者となって結ばれた「新しい契約」により、シナイ契約は「古い契約」となった。

(3)大串元亮牧師が心臓病のために倒れ、二度の手術によって奇蹟的に回復した経験を基にして、預言者エレミヤの言葉を説き明かしました。「新しい契約は彼らの心に記す」。「心」は「心臓」を意味する。「あたかも心臓」移植するかのように、神の救済のメスが人間存在の奥底に入れられていく。こうして人間の体も心も、神の愛の御手によって、まったく新しい人間に創造されるのです」。私たちの大祭司イエスは十字架で御自分の命を犠牲にしてまで、自らの血によって私どもの心に板に霊の文字を刻んで下さり、私ども生きる時も死ぬ時も生かして下さるのです。心臓移植をされたのです。私どもは大祭司イエスの執り成しにより、主イエスの命の鼓動に生かされるのです。それこそが私たちの大祭司イエスを契約の仲保者とする「新しい契約」なのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月11日の祈り イザヤ53・11

「主よ、われらの神よ、在天のわれらの父よ、われらは感謝します。あなたはわれらの過失、われらの罪がみまえに出ることをゆるしてくださいます。そのことにより、われらは善においても悪においてもわれら自身の代表を持つことを得、われらの全時代は、すべてがすでに聖なるみ顔のまえに出たのだという慰めを得ることをゆるされているのです。こうしてわれらの日々のおそるべきことも善へと整えられ、禍いから救いが生じ、死から生命が生じるようにしてくださるのです。高き、全能なるみ名はほむべきかな!あなたの僕に対する信仰によってわれらをお守りください!常にわれらを強くしてください。苦しまなければならない時にもなお強く、勇気を持たせてください。時は来ます。あの時あなたの善きことは、地上の至るところにおいて、すべての民の仲に明らかに示されるのです。アーメン」。

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