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「神を父よと呼ぼう」

イザヤ63:15~19
ローマ8:12~17

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年2月26日

00:00 / 41:51

1.①第二次世界大戦が勃発した頃、スイスのチューリッヒの教会の牧師でありましたブルンナー牧師は、一つの決心をして教会の信仰の土台にある使徒信条の連続講解説教を始めました。後に、『我は生ける神を信ず』と題する説教集となりました。世界が足下から大きく揺らぐ中で、教会が依って立つ信仰とは何かを明確にし、その信仰の上に堅く立とうと決心したからです。 


ブルンナー牧師は戦後、日本に来られ、国際基督教大学の特任教授として2年間、働かれました。64歳の時でした。世界的に有名な神学者が、東アジマの小さな国で奉仕をされる。しかも、御自分のライフワークであった『教義学』の執筆を中断してまで、日本の宣教のために、御自分を捧げられた。これは当時、世界の教会に衝撃を与えた事件でした。ブルンナー牧師は日本の教会、キリスト者に大きな影響を与えました。ブルンナー牧師の感化を受けて、伝道者に献身された方も多くしました。帰りの船で、脳溢血で倒れ、体調を崩されました。将に、日本のために命を捧げられた伝道者でありました。


このブルンナー牧師が、先程も申し上げましたように、第二次世界大戦が勃発した頃、使徒信条の連続講解説教を始めました。ドイツ軍がポーランドへ侵攻した直後の礼拝で、ブルンナー牧師は語ります。


「ポーランドの母親たちが、あの厳しいポーランドの冬が訪れようとするのに、上を仰げば屋根はなく、暖炉には燃料もなく、食料もなく、彼女らの夫たち、兄弟たち、息子たちは死に、そこにはパンも着物も与えることのできない飢えと寒さに泣き叫ぶ子どもたちが残されているとしたら、彼女らはどんな気持ちで立っていることでしょうか。どのような激情をこめて、彼女たちはこの問いを天に向かって叫びのぼらせることでしょうか」。


「神さま、あなたは全能の父なる神でいらっしゃるではありませんか。あなたの子らが残酷な苦しみを受け、叫んでいるのです。なぜ、あなたは放置されるのですか。あなたは生きて働かれる神ではありませんか」。


 ブルンナー牧師がこの時の説教で語られた主題は、使徒信条の「われは全能の父なる神を信ず」でした。全能の父なる神よ、と呼べないような現実の中にあって、「されど、あなたはわれらの父よ」と呼ぼうと語りかけています。



②ロシアがウクライナに侵攻してから1年が経ちました。第二世界大戦下のポーランドと同じ状況が、今、ウクライナにもあります。世界の各地にもあります。新しい戦前の始まりであると言われる方もいます。神の子らは叫んでいます。「神よ、あなたは全能の父なる神ではありませんか。あなたの子が残酷な苦しみの中に置かれているのです。何故、放っておかれるのですか。何故、生きて働かれないのですか」。歴史を生きる一人一人が将来に望みを抱くことが出来ず、恐れの霊、不安の霊に取り憑かれています。或いは、諦めの霊に取り憑かれています。


私が苦しみ、悲しみの中にある教会員に、ハガキを書く時に、しばしば記す御言葉があります。詩編50編の御言葉です。


「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」。


父なる神が私どもに、まず呼びかけるのです。「悩みの日、わたしを呼びなさい」、「苦難の日わたしを呼んだらよいではないか」。


この「呼ぶ」という言葉は、「電話をかける」という意味でもあります。父なる神が私どもの電話番号を知っていて、電話をかけて下さる。「あなたは悩んでいないか。苦しんでいないか」。「今度は悩みの日、苦しみの日、あなたからわたしに電話をかけたらよい。わたしの電話番号を教えよう」。


私どもが父なる神の呼びかけに応えて、電話をかける。将に、いのちの電話です。誰にも打ち明けられない悩み、苦しみを打ち明けるいのちの電話です。その時、私どもは父なる神に向かって、何と呼べばよいのでしょうか。その呼びかけこそ、主イエスが私どもに「祈るときは、こう祈りなさい」と教えて下さった、「アッバ、父よ」です。



2.①この朝、私どもに与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章です。その中にも、「アッバ、父よ」という言葉が語られていました。


「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。


 「アッバ、父よ」。この祈り、呼びかけを最初にされたのは、主イエスです。「アッバ」は、主イエスが日常生活で用いていたアラム議です。それに自分たちの国の言葉を付けて、伝えられた言葉です。「アッバ、父よ」。しかも、アッバという言葉は、子どもが親しみを込めてお父さんを呼ぶ時に用いる日時生活の言葉です。「おとうちゃん」、「パパ」。主イエスは親しみを込めて、父なる神を、「アッバ、おとうちゃん」と呼びました。このような呼びかけをされたのは、主イエスが初めてだったのです。ある神学者は語ります。主イエスの地上の歩みにおいて、最も大切なことの一つは、神を「アッバ、父よ」と呼ばれたことであった。主イエスは祈りの革命を起こされた。新しい祈りの道を拓かれた。しかも主イエスはこの祈りを独り占めなさらず、私どもも「アッバ、父よ」と呼んでよいのだと呼びかけて下さったのです。主イエスは生まれながらの神の実の子です。しかし、私どもは生まれながらの神の子ではありません。むしろ、神に敵対していた。しかし、私どもも主イエスを信じ、神の霊を注がれることにより、神の養子とされ、神の子とされ、長男である主イエスと一緒に「アッバ、父よ」と呼べるようになったのです。



②旧約聖書にも、天地の造り主を「われらの父よ」と呼ぶ言葉はあります。神は人間を遙かに超えて、天高くにおられる。私ども人間の手の届かない、遙か彼方におられる。それ故、「われらの御父君」というように、かしこまった呼び名で、かしこまった姿勢で呼んでいました。神の名を呼ぶ時には、礼服を着て、姿勢を糾して、うやうやしい呼び名で呼ぶことが求められました。


 しかし、主イエスはそれを打ち破られました。「アッバ、父よ」「おとうちゃん」と呼んでよいのだと言われた。父なる神が私どもに対して、ぐんと近くになった。「アッバ、父よ」という言葉は、普段着の言葉です。普段着のままで、普段着の言葉で、いつでも、どこでも父なる神に向かって、「アッバ、父よ」と祈ることが出来ます。汗と汚れが染み込んだ仕事着、学生服のままで、料理のしみのあるエプロンを着けたままで、赤ちゃんのよだれが染み込んだ服のままで、ベッドに寝たままの寝間着のままで、いつでも、どこでも、どんな姿勢であっても、誰もが「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。これは本当に素晴らしいことです。


 ある方は語ります。「アッバ」という言葉は、赤ちゃんが最初に発する「アブ、アブ」という言葉から生まれたのではないか。世界中の赤ちゃんが最初に発する音は「アー」です。最初に発する言葉にならない言葉は「アブ、アブ」です。そこから生まれた言葉が「アッバ」。「おとうちゃん」。これも素晴らしいことですね。赤ちゃんから、死を前にして、最後の息をしている高齢の方まで、「アッバ」と呼ぶことが出来る。「アッバ」で始まり、「アッバ」で結ばれる。それが私どもの人生であるのです。


 昨夜も、教会員のご家族の前夜の式がありました。突然に亡くなられました。ご家族にとっては、この現実をどのように受け留めてよいのか分からない。途方に暮れる思いでした。息も出来ない程の悲しみ、苦しみに、じっと耐えておられました。その前夜式に参列しながら、「アッバ、アッバ」と執り成しながら、祈っていました。



3.①八木重吉という29歳で、肺結核で逝去された詩人がいました。病と闘いながら、詩を綴っていました。その信仰の中心にあったのは、「アッバ、父よ」でありました。


「てんにいます おんちちうえをよびて


 おんちちうえさま おんちちうえさまととなえまつる


 いずるいきによび 入りきたるいきによびたてまつる


 われはみなをよぶばかりのものにてあり



 もったいなし おんちちうえ ととのうるばかりに


 ちからなく わざなきもの


 たんたんとして いちじょうのみちをみる」



 息を吐いたり、息を吸ったりする度に、体に痛みが走ります。しかし、息を吐いたり、息を吸う度に、「アッバ、アッバ」と呼ぶ。八木重吉にとって、祈りは呼吸であったのです。呼吸をしなければ、生きることは出来ません。祈りの呼吸をしなければ、生きられない。それが「アッバ」でした。「アッバ」という言葉を発音しますと、将に、呼吸であることが分かります。


 もう一つ、八木重吉の信仰の核心となる詩があります。


「われちちとよぶ


 われをよぶこえもあり


 そのこえのふところよりながむれば


 きりすとの奇蹟のやすやすとありがたき」



 「アッバ、父よ」と呼ぶ。しかし、私が呼ぶよりも確かな、私を呼び声が聴こえて来る。「わが子よ」。その声を辿って行くと、父なる神の懐に飛び込んでしまう。その懐から見ると、キリストの奇蹟はやすやすと分かり、有り難いものになる。キリストによって、「アッバ、父よ」と呼べる有り難さが身に染みて分かって来る。素敵な詩です。



②日本のプロテスタント教会の歩みは、アメリカから遣わされた宣教師によって、青年たちの心を捕らえることから始まりました。その中心に、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドがありました。バンドは結びつきです。キリストによって結ばれた交わりです。それぞれのバンドに特色がありますが、共通しているものは、天の神を「アッバ、父よ」と呼ぶことから始まったということです。


 横浜の宣教師バラの許に、青年たちが集まって新年の祈祷会を行った。部屋には何の飾りもなく、拝むべき像も置かれていなかった。ただあったのは、聖書のみ。宣教師が朗読し、説き明かす御言葉に、青年たちの心は捕らえられ、天の見えざる神に向かって、「アッバ、父よ」と呼んだ。「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りの交わり、祈祷会が、新年で終わらず、春まで続いた。洗礼を受ける青年が次から次へと生まれた。それが日本で最初のプロテスタント教会となった。横浜海岸教会です。その祈祷会に出席し、洗礼を受けた青年が、こういう感想を記しています。


「ああ、天が匂いを放った」。


天の父なる神の懐に抱かれて、父なる神の匂いがした。ああ、天の父に抱かれて、私どもの命があるのだと確信した。そして「アッバ、父よ」と呼ぶ時に、必ず、「イエス・キリストの名によって祈りました」。


 カトリックの晴佐久昌英神父が、『おさなごのように~天の父に甘える77の祈り~』という祈り集を綴っています。その「はじめに」でこのようなことを語っています。


「赤ちゃんは、おなかがすくと、『ばぶー』と言います。お母さんは、『はい、はい』と言って、ミルクを飲ませます。赤ちゃんは、眠くなると、『ふぎゃあ』と泣きます。お母さんは、『よし、よし』とあやしながら、寝かしつけます。そんなやりとりも、すべて祈りです。


 まことの親のふところで、『あぶー』と祈る、感謝と賛美。


 まことの親の恵みを求めて、『ばぶー』と祈る、信頼と希望。


 まことの親の愛にすがって、『ふぎゃあ』と祈る、悲嘆と懇願。


 まことの親はそのすべてを初めからご存じですし、そのすべてを受け止めてくださいます。そうして何もかも、わが子にとっていちばん良いように計らってくださいます。


 そのような、まことの親との根源的な交わりを、たったひと言の祈りで表すことができます。


 『天の父よ!』」。


 しかし、その要にあるのは、「イエス・キリストの名によって祈ります」です。



4.①私どもが天の父を、「アッバ、父よ」と呼べるようになるために、主イエスは激しい祈りの闘いをしなければなりませんでした。十字架にかけられる前夜、主イエスはゲツセマネで、汗を血の滴るように流しながら、地面にふれ伏し、夜を徹して祈られました。マルコ福音書はその時の祈りをこう記しています。14章36節。


「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心が適うことが行われますように」。


 主イエスは繰り返し繰り返し、「アッバ、父よ」「アッバ、父よ」と叫びながら、父なる神の御心を尋ね求められました。わたしは死ぬばかりに悲しい。出来ることなら、十字架で父なる神の怒りの杯を飲むことを避けたい。しかし、それが父なる神の御心であるならば、わたしは十字架で怒りの杯を飲みます。主イエスの十字架での身代わりの死によって、私どもが主イエス・キリストの兄弟とされ、神の養子とされ、「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りの道が拓かれるためです。私どもは今、「アッバ、父よ」と呼べるのは当然のことではありません。主イエス・キリストのいのちと引き換えに、与えられた恵みの賜物なのです。



②先週の土曜日、月刊誌『信徒の友』3月号が送られて来ました。その中に、「40代、50代の証し」というコーナーがあります。その文章を書かれたのが、私がかつて伝道していた伊勢の山田教会の信徒、山本ちなみさんであったのです。知らずに読んでいて、驚きました。私が神学校を卒業し、伝道師として遣わされた時、ちなみさんは教会の幼稚園の園児でした。


 常盤幼稚園はアメリカの女性の教育宣教使ライカー先生によって、大正2年に創設されました。伊勢神宮の氏子の町で、キリスト教幼稚園を通して、園児が「アッバ、父よ」と呼ぶようになる。その園児が各家庭の食卓で、「アッバ、父よ」と呼びながら食前の祈りを家族と共に捧げるようになる。そのようにして、神の子らの祈りの輪が広がって行くことを目指しました。


 ちなみさんは卒園の時に、「将来は常盤幼稚園の先生になりたい」と発表したら、冨山園長が「ぜひ常盤幼稚園の先生になって下さい」と声をかけて下さった。幼稚園卒園後も、ほとんどの園児がそのまま教会学校に出席します。ちなみさんも小学生、中学生、高校生と休まずに教会学校に通い続けました。また、教会学校の前に、8時から教会学校のハンドベルクワイアーの練習があり、それにも参加していました。ところが、名古屋の大学の進み、教会から足が遠のくようになりました。卒業後、結婚し、三重の名張に引っ越しをすることになりました。知っている人は誰もいません。寂しさが募り、不安な日々でした。


数週間経ったある日、近所の教会の看板が目に留まった。その瞬間、「アッバ、父よ」と呼んだことを思い起こした。イエスさまが私と共にいて下さる。私には帰るところがあると感じ、心が励まされた。丁度その時、私はすっかり忘れていましたが、井ノ川牧師から「洗礼を受けませんか」という手紙をいただいた。帰省のタイミングが合わず、一度は断念したが、再度手紙をいただき、イースターに洗礼を受けた。「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子らの交わり・教会に加えられた。教会学校の教師になり、教会学校のハンドベルクワイアーのお手伝いをし、教会のハンドベルクワイアーにも加わった。


その後、言語聴覚士の資格を取り、発達障害のある子どもたちのコミュニケーションの支援をする仕事に就いた。ところが、神さまは私に新たな使命を与えられた。常盤幼稚園の保育者を求めていることを聞き、大学の通信教育で幼稚園教諭免許の資格を取り、昨年から常盤幼稚園で務めるようになった。「将来は常盤幼稚園の先生になりたい」。「ぜひ常盤幼稚園の先生になって下さい」。それから30年以上が経ち、神さまは私の最初の志を適えて下さった。神のご計画に驚きの連続です。毎日、子どもたちと共に、「アッバ、父よ」と呼ぶ礼拝を捧げることが出来ることは、何と幸いなことか。イエスさまを通し、天の父を「アッバ、父よ」と呼ぶ。それは掛け替えのない最初の祈りの経験です。


常盤幼稚園の創設者ライカー先生は、太平洋戦争が始まると、敵国人としてアメリカに強制送還されました。伊勢で30年、自分の骨を埋めるためにお墓まで用意していました。伊勢市駅で、教会員、幼稚園の保育者、園児のお見送りも許されませんでした。戦後、ライカー先生から手紙が届きました。そこにこう記されてあった。「戦争で、伊勢神宮の前にあった常盤幼稚園は無くなってしまったと思っていた。ところが、戦争中も、戦後も、幼稚園が存続していると聞いて、神さまに感謝した。幼児に、イエスさまの名を伝え、「アッバ。父よ」と呼ぶ神の子を育てることこそ、生涯に亘って大切な土台を据える掛け替えのない保育の業です」。



③本日礼拝後、教会総会が開催されます。コロナ禍3年を経験し、教会の現状は厳しく、将来も厳しいものがあります。しかし、私どもは主イエス・キリストのいのちと引き換えに誕生した、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子らの交わりです。伝道者パウロはローマの信徒への手紙を通して語ります。


「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって導かれるならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。それ故、私どもはどんなに困難な状況にあっても、神が注がれる霊、キリストが注がれるいのちの息を受けながら、望みをもって「アッバ、父よ」と共に呼びながら、神の子らの群れとして、歩調を合わせて歩んで行くのです。一人一人が神の霊を注がれた器として、不思議な仕方で神に用いられるのです。「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子らの群れの中に、新しい


神の子らを招いて行くのです。



 お祈りいたします。


「イエスを死者の中から復活させた父なる神の霊が、私どもにも注がれ、宿り、生かしているのです。アッバ、父よと呼ぶ神の子らの群れに加えられた私どもが、どんな時にも、アッバ、父よと呼びながら歩むことが出来ますように。主よ、私どもを神の霊、キリストの息を注がれた神の器として、用いて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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