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「死からいのちへ」

詩編16:10~11
ルカ7:11~17

主日礼拝

井ノ川勝

2024年11月3日

00:00 / 39:33

1.①今年も、6名の教会員、御家族が逝去され、この礼拝堂で葬儀が行われました。1月、長谷川榮さん、2月、小倉五郞さん、3月、吉田晃さん、7月、井波紀久子さん、9月、谷内江雪江さん、10月、前川其枝さんです。御遺体は礼拝堂から斎場に運ばれ、火葬に伏されました。この礼拝堂は家族との別れ、信仰の友との別れの場所となり、繰り返し涙が流されて来ました。今でもその涙は乾くことはありません。この礼拝堂で神の御前に立つ時、改めて家族、信仰の友の姿を想い起こします。今、家族、信仰の友の姿が見られないことに悲しみを新たにします。私どもは日々の生活において、自らの命が死へ向かっていることを、あまり意識しないで生きています。しかし、家族、信仰の友の死に接しますと、私どもの人生が改めて、死と隣り合わせに生きている、命から死へ向かっていることを実感いたします。

 

伝道者はいつも、突然、死の知らせを御家族から受けます。真夜中であることもあります。従って、伝道者はいつも死の知らせに備えていなければなりません。しかし、いつも死の知らせを受けますと、恐れに満たされます。心も体も恐れに捕らわれ、びくびくいたします。伝道者といえども、死に立ち向かう力など持っていません。死に立ち向かう言葉など持っていません。

そのような伝道者である私が、死の知らせを受け、亡くなられた教会員、御家族の許へ向かう時に、いつも心に刻み付けている御言葉があります。それは今朝、私どもが聴いた御言葉です。墓へ向かう棺の前に立たれ、近づいて棺に手を触れられ、「もう泣かなくともよい」と語られた主イエスの物語です。

 主イエスこそが死に立ち向かうことの出来るただ一人のお方。主イエスこそが死に立ち向かう言葉を語ることの出来るただ一人のお方である。それ故、主イエスが先頭に立って、亡くなられた教会員、御家族の死と向き合って下さる。そして死に向かって御言葉を語って下さる。そのことを信じて、いつも葬儀に臨んでいます。

 私どもの歴史は繰り返し、死に直面し、葬りを行い、墓で納骨を行って来た歴史でもあります。しかし、命から死へと向かうことの流れを変えられたお方がいます。死からいのちへという流れを生み出された。そのお方こそ主イエスなのです。その決定的な出来事が、今日、私どもが聴いた御言葉です。

 

2.①ナインという町に、やもめがいました。夫に先立たれ、今また、頼りにしていた一人息子にも先立たれました。息子の遺体は棺に入れられ、町の外にある墓に向かって担ぎ出されるところでした。棺の後には、涙に暮れる母親を先頭に、近所の者たち、親しい者たちが続いていました。皆、涙を流していました。悲しみの葬列です。

 ところが、この悲しみの葬列と向き合う、もう一つの行列がありました。主イエスを先頭に、弟子たち、群衆が続く行列でした。主イエスを先頭にしていたこの行列が、墓へ向かって運ばれた棺を止めてしまったのです。驚くべき出来事が起こりました。私どもはどんなに愛する家族であっても、親しい友であっても、死が訪れると葬りをし、お骨を墓へ運ばなければなりません。本日も午後、野田山の教会墓地に足を運び、墓前祈祷会、5名の方の納骨を行います。私どもも繰り返し墓へ出向いて、涙を流しながら納骨を行います。しかし、墓へ向かう棺を、主イエスは止めてしまわれました。そこで主イエスは一体、何をなされたのでしょうか。

 御言葉は誠に簡潔に、明快に、主イエスの動作を綴っています。

 主イエスは母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。 

 当時も、死者は汚れている。死者が入れられた棺は汚れている。それ故、手で触れることを避けていました。しかし、主イエスはそのようなことを信じません。死者も神がお与えになった大切な命です。主イエスは棺に、死者に近づかれます。愛をもって手で触れられます。主イエスは愛する独り息子を亡くした母親の涙、悲しみを、愛のまなざしで覧になられます。ヨハネによる福音書では、愛する兄弟ラザロを亡くした姉妹マルタとマリアの涙を見られた主イエスも、涙を流されました。死の前で激しく動揺するマルタとマリアをご覧になられ、主イエスも悲しみのどん底に突き落とす死に対して、激しく心を揺さぶり、向き合われました。

 

主イエスは母親の涙と悲しみをご覧になられ、憐れに思われました。この「憐れに思う」は、単なる同情ではありません。激しい感情を表す言葉です。「腸引き千切れる痛み」を伴う感情です。体の中心である内臓が激しく痛むことです。全身の痛みをもって、愛する独り息子を亡くした母親の悲しみに共感することです。この言葉は父なる神と主イエスだけにしか用いられない言葉です。

 このルカ福音書で、主イエスは有名な譬え話を二つかたられました。一つは「放蕩息子の譬え話」です。放蕩に身を持ち崩した息子の姿を見た父親は、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して息子を迎えました。「憐れに思って」駆け寄った父親の姿は、父なる神のお姿です。

 もう一つは「よきサマリヤ人の譬え話」です。追い剥ぎに襲われ道に倒れたユダヤ人を、「憐れに思い」介抱した、犬猿の仲にあったサマリヤ人は、主イエスであるとも言われています。

 腸千切れる痛みをもって、愛する独り息子を亡くされた母親の悲しみと向き合って下さる主イエスは、ただひと言語られました。「もう泣かなくともよい」。どのような思いが込められた言葉なのでしょうか。この言葉は主イエス以外誰にも語ることの出来ない言葉です。愛する家族を亡くされた御遺族に、伝道者が「あなたはもう泣かなくともよい」と語れるでしょうか。語れません。もし語ったら、あなたは何と御遺族に対し、同情心のない伝道者であるかと批判されることでしょう。

 腸千切れる痛みを伴って、主イエスはどんな思いを込めて、この言葉を母親に語られたのでしょうか。「あなたは泣くな」と、泣くことを否定する言葉ではありません。主イエス御自身も、愛する兄弟ラザロを亡くされた姉妹マルタとマリアの涙をご覧になられ、涙を流された方です。愛する家族を亡くされることが、どんなに深い悲しみであり、心にも肉体に食い込む程の痛みであるか。主イエスが最もよく知っておられます。「あなたはもう泣かなくともよい」。あなたはもう絶望の涙を流すことはない、という意味です。あなたが流す涙の意味が変えられたのです。あなたが流す涙の方向が変えられたのです。私どもは葬儀で涙を流します。火葬場で涙を流します。墓地で涙を流します。しかし、そこで私どもが流す涙はもはや絶望の涙ではなくなったのです。涙の意味、涙の向きを、主イエスが変えて下さったからです。

 

3.①主イエスは棺に近づき、手を触れ、墓へ向かう棺を止められました。そして語られました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。主イエスは息子を母親にお返しになられた。誠に驚くべきことが起こった。私どもの葬儀では、愛する家族が生き返って、手許に戻って来ないではないか。何故、私どもの葬儀には、このような奇跡が起こらないのか。そう思われる方もいると思います。果たして、主イエスのこの出来事は、私どもに何を告げようとされているのでしょうか。

 私どもの人生の流れ、命の流れは、命から死へです。この流れに逆らうことは誰も出来ません。誰もが死へ向かって歩んでいます。しかし、この流れを主イエスは止められ、新しい流れを造られたのです。墓へ向かう棺を止められ、墓に埋葬される独り息子を生き返らせた。そのことにより、私どもの命の流れが、死からいのちへ向かう流れになった。私どもが流す涙が絶望の涙ではなく、空しい涙ではなく、父なる神の懐へ、主イエスへ向かう涙となったのです。私どもの流す涙は地に落ちて、空しく消えるのではない。天に向かって流れる。私どもの一粒一粒の涙が数えられ、神の革袋に蓄えられるのです。

私どもの人生に突然、死が訪れます。愛する家族を有無を言わせず奪って行きます。しかし、主イエスが訪れて下さる。神が訪れて下さることにより、私どもの家族の命は死に奪われたのではなく、神の御手の中にある、主イエスの御手の中にあることを知らされるのです。

 キリスト教会は、十字架につけられた主イエスが甦られた、主イエスの甦りの出来事から始まりました。それまで葬儀は夜の闇の中で行われました。夜の闇の中で葬りをしました。人々は黒い衣服を身に纏い、悲しみを表しました。ところが、主イエスが甦られた後、教会は昼に葬儀を行うようになりました。太陽の光の下、葬りを行いました。しかも白い衣服を纏って、葬りをしました。人々は驚きました。キリスト教会の葬儀は非常識だと批判しました。しかし、葬儀においてこそ、キリスト教会の死の理解、葬りの信仰が言い表されたのです。私どもの命は死に呑み込まれ、闇の中に永遠に空しく、望みなく葬られ、闇に支配されるのではない。死んでも尚、神の御手の中にある。主イエスの御手の中にあるのです。

 今日、私どもは葬儀において、白い服を身に纏いません。白いネクタイはしません。やはり黒い服を身に纏い、黒いネクタイをします。服装で悲しみを言い表します。しかし、信仰においては、死に打ち勝たれた甦りの主の光の中にあることを信じて、悲しみに寄り添いながら葬儀を行います。

死が訪れること以上に決定的なことは、主イエスが訪れて下さったことです。主イエスが訪れることが、神が訪れたことなのです。棺を止められた主イエスは、やがて御自身も十字架につけられ、過酷な死を味わわれ、暗い墓に葬られました。しかし、死の闇を引き裂かれ、死に打ち勝ち甦られ、墓から出て来られました。この福音書は主イエスをこう言い表しました。

「主はこの母親を見て、憐れに思い」。「主」という言葉は、甦られた主、死に打ち勝たれた主を表す言葉です。私どもは死んでも、死に打ち勝たれ、甦られた主イエスの御手の中にある。それ故、死からいのちへ向かう。私どもの涙も主の御手の中に流れ、受け止められるのです。

 

葬儀の時に読まれる御言葉があります。詩編139編です。旧約979頁。主イエスが訪れる五百年前に語られた御言葉です。詩人は語ります。

「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。

「陰府」とは死者が赴く所です。神の御手が及ばない所です。闇が支配する、光も望みもない所です。死んで陰府に降り、身を横たえようとしたら、見よ、そこにもあなたはおられる。神はおられる。詩人は驚いています。この御言葉は、主イエスの甦りの出来事においてこそ、確かな御言葉となりました。

「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたそこにいます」。そして、こういう言葉が続きます。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。

 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」。

 主イエスが棺に近づき、手を触れ、若者を生き返らせ、墓へ向かう棺の方向を変えてしまわれた。涙を流しながら悲しみの葬列に加わっていた者たちは、驚いたことでしょう。人々は皆、恐れを抱きながらも、神を賛美して言いました。

「大預言者が我々の間に現れた。神はその民を心にかけてくださった」。

「神は心にかけてくださった」。この言葉は、「神がわれわれを訪れた」という意味でもあります。この言葉は、主イエスに先立って現れた洗礼者ヨハネの父ザカリアが、神に向かって歌った歌があります。「ザカリアの賛歌」と呼ばれています。その讃美歌と響き合っています。主イエスの訪れによって、あけぼのの光が訪れたと歌います。1章18~19節。

「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗黒と死の陰に座している者たちを照らし、我等の歩みを平和の道に導く」。

 私どもは葬儀の時にも讃美歌を歌います。火葬場でも、墓でも讃美歌を歌います。愛する家族を亡くした悲しみの涙を流しながらも、神に向かって、讃美歌を歌います。ここに私どもの信仰があるからです。悲しみの中で、暗黒の死の陰に座している私どもに、あけぼのの光が訪れるために、主イエスは甦られたのです。夜の闇は終わりを告げ、あけぼのの光、朝の光が注がれ、その光の中で、涙に暮れながらも、神に向かって顔を上げ、讃美歌を歌うのです。主イエスは甦って、生きておられ、私どもの悲しみの葬儀にも訪れて下さるのです。

 

4.①今年、6名の教会員と御家族の葬儀を行いました。一つの涙が乾かない内に、新しい涙を流す日々でした。更に、親しい交わりにありました伝道者が次々に逝去されました。4月、加藤常昭教師が95歳で逝去されました。若草教会の初代牧師であり、神学校でも、卒業後も、説教の指導をして下さった教師です。7月、北陸でも交わりがあった青山教会の増田将平牧師が52歳で死去されました。10月、以前、若草教会の牧師であり、富山二番町教会の勇文人牧師が63歳で急逝されました。現任牧師を失うことは、日本伝道にとっても大きな痛手です。先週、二年に一度の日本基督教団総会が東京で開催されました。2日目の朝、逝去者記念礼拝が行われ、この2年間、逝去された伝道者、宣教師一人一人の名前が読み上げられ、祈りを捧げました。皆、日本伝道のために力を注がれた伝道者でした。

 加藤常昭先生のお連れ合い、加藤さゆり牧師は10年前に逝去され、鎌倉雪ノ下教会で葬儀が行われました。加藤常昭先生と親しい交わりにありましたドイツの神学者クリスティアン・メラー先生の弔電が朗読されました。

「愛する加藤さん!悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手を取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!』と。

 だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍らにいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺して逝ってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいて幸せでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、こころに食い込みます。

 あなたに神の慰めが降ってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますね。キリストの甦りのメッセージがあなたを捉え、この厳しい時に、励ましてくださいますように。

 あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころから挨拶を送ります。

 あなたのクリスティアン・メラー」。

 

 お祈りいたします。

「主よ、かつて共に礼拝を捧げた家族、信仰の友を想い起こしながら礼拝を捧げています。共に祈りを捧げました。共に讃美歌を歌いました。そのお姿が見えないことは寂しいことです。愛する家族を亡くし、悲しみの涙を流している一人一人を、主よ、訪ねて下さい。あけぼのの光を注いで下さい。もう泣かなくともよいとの声を聴かせて下さい。午後、教会墓地で行われる墓前祈祷会、納骨を、主よ、御手をもって導いて下さい。生きる時も死ぬ時も、甦りの主の御手の中にあることを確信させて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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