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「主イエスに学ぶ人生の歩み」

イザヤ53:1~7
ペトロ一2:18~25

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年5月14日

00:00 / 42:41

1.①私どもの人生において、誰もが経験すること。それは「苦しみ」です。苦しみのない人生はありません。苦しみから逃れることも出来ません。だからこそ、私どもは一層苦しむのです。幼いわが子が苦しんでいます。小さな心の部屋に、苦しみがたくさん詰まっています。しかし、その苦しみを自分の言葉で表現出来ません。親であっても、わが子の苦しみが分からない。受け止めることが出来ません。親としてわが子の苦しみを代わりに担って上げたい。しかし、それが出来ません。それは親として耐えられない苦しみです。


治らない病を負われている方がいます。人との関係が破れて、心に傷を負うている方がいます。あの人が語られた言葉がナイフのように心に突き刺さり、傷の癒えていない方がいます。一人一人が様々な苦しみを抱えて生きています。


 「100分で名著」というテレビ番組があります。4月は『新約聖書・福音書』が採り上げられていました。テキストの「はじめに」で、ハンセン病を負われた詩人の近藤宏一さんのことが紹介されていました。ある日突然、ハンセン病の宣告を受け、家族から引き離され、隔離されてしまう。自分が抱いていた人生の夢が突然遮断されてしまう。差別と偏見の中で、心も体も傷を負い、二重三重の苦しみを背負って生きて行かなければならない。自分の力ではどうすることも出来ない苦しみ、到底、理解出来ない苦しみを背負って生きなければならない。それを「不条理な苦しみ」と呼びました。



②私どもは苦しみを背負いながら、聖書の御言葉に触れます。聖書は苦しみを語る御言葉であるからです。私どものように、歴史の中で様々な苦しみを負いながら、呻きながら生きてきた人々の苦しみが語られているからです。私どもは必ず、聖書の中で、自分の苦しみを発見します。言葉で言い表せなかった私の苦しみが、ここにあったと発見します。聖書の中に、こういう叫びがあります。


「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。


苦悩にわたしの目は衰えて行き、わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました」。


「わたしの切り傷はいえず、打ち傷は痛む。訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない」。


 私どもは誰もが、苦しみを通して負うた打ち傷を治す医者、傷口につけて癒す薬を求めています。


日本のプロテスタント教会の草創期を代表する伝道者に、植村正久牧師がいました。植村牧師は最も深刻な苦しみ、病を、「霊性の危機」「霊性の病」と呼びました。私どもの肉体は霊性、魂と一つに結び付いています。私どもの肉体だけでなく、霊性、魂までも病んでしまう。それを霊性の危機と呼びました。私どもの霊性、魂までも危機に瀕し、病んでしまう。それはどういうことなのか。神との関係が破れてしまうことです。神と私どもを繋ぐいのちのパイプに、ひびが入ってしまう、ごみが詰まってしまう。私どもの叫びが神に届かなくなる。神のいのちの息が私どもに届かなくなる。もはや神に訴えたって無駄だと、諦めてしまう。これこそが深刻な病、危機、苦しみだと、植村牧師は語りました。



2.①この朝、私どもが聴いた御言葉は、ペトロの手紙一2章18節以下の御言葉です。様々な御言葉が心に留まったと思いますが、皆さんはどの御言葉が心に響いて来たでしょうか。恐らく、多くの方が心に留めた御言葉の一つが、この言葉ではなかったでしょうか。


「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。


 魂の牧者、監督者とは誰なのでしょうか。主イエス・キリストです。主イエスは私どもの魂の牧者、カルヴァンの言葉で言えば、魂の医者です。羊のようにさまよい、傷を負うていた羊である私どもは、魂の牧者、魂の医者である主イエス・キリストの許に立ち帰って、傷を癒していただくのです。魂の牧者であり、魂の医者である主イエス・キリストによってしか癒せない傷がある。それが霊性の危機、霊性の病です。神との関係の破れです。


 私ども伝道者の説教の指導をして下さるのは、4月に94歳になられた加藤常昭先生です。今でもオンラインで、厳しく説教の指導をされています。加藤先生が繰り返し語る言葉があります。私どもにはもう耳にたこができる程、何度も強調される言葉です。植村正久牧師が若き伝道者に向かって語られた言葉です。医者が病人の枕元で、病理の講釈をいくらしても、病は癒やせない。同じように、伝道者は霊性の病の患者に向かって、いくら聖書の講釈をしても、霊性の病を癒すことは出来ない。伝道者にとって必要なことは、魂の医者である主イエス・キリストを真っ正面から紹介することに尽きる。その気合いが乏しい。



②本日も礼拝の中で、聖書の福音を凝縮した、教会の信仰告白である「使徒信条」を告白しました。その中で、主イエス・キリストの地上の歩みを、一言で言い表しました。「苦しみを受け」。主イエスの地上の歩みは、「苦しみを受け」、この一言で全てが言い表されています。もう少し丁寧に言いますと、「使徒信条」では、「ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け」です。主イエスの地上の歩みの最後の場面、裁判の場面で、ピラトから十字架刑が宣告されました。しかし、主イエスの地上の歩みの最後の場面だけが、苦しみを受けられたのではありませんでした。


 聖書の福音を問答形式でまとめた、宗教改革時代に作成された『ハイデルベルク信仰問答』があります。その中で、「使徒信条」を説き明かした箇所で、こう問いかけています。「『苦しみを受け』という言葉で、何を言い表していますか」。答はこう続きます。「キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです」。


 主イエスが地上のご生涯で負われた苦しみは、自分のための苦しみではなかった。私どものための苦しみを全て負うて下さった。主イエスは「苦しみを受け」と言われる時に、この主イエスの苦しみの中に、私どもの苦しみも含まれているのです。あの時、私はたった一人で苦しんでいた。誰も私の苦しみなど分かってくれないと叫んでいた。私はもはや神から見捨てられたと呻いていた。しかし、どんな私どもの苦しみも、主イエスが負えない苦しみなどないのです。


 問題は、私どもが苦しみの中で、植村牧師が語るように、「霊性の病」に捕らわれてしまうことです。苦しみの中で、神を疑い、信じなくなることです。苦しみの中で神から離れてしまうことです。苦しみから助けてくれない神を見放して、私はもう神を信じないと叫んで、神から離れてしまうことです。しかし、主イエスは私どものどんな苦しみをも負うて下さり、私どもが神から離れないように執り成して下さる魂の牧者なのです。



3.①今日の御言葉には、具体的な苦しみが語られています。職場での苦しみ、家庭での苦しみ、人間関係の苦しみです。今日の御言葉は3章7節まで一つのまとまりを持っています。家庭訓と呼ばれています。昔は各家庭にそれぞれの家庭の方針を掲げた家庭訓がありました。ここには聖書が語る家庭訓があります。召し使いたちよ、妻たちよ、夫たちよ、と呼びかけがなされています。当時、各家庭に召し使いがいました。家庭の労働を担ったり、食事や掃除をしたり、家庭の会計簿を管理したり、子どもの家庭教師をしていました。そのような召し使いが教会の礼拝へ導かれ、洗礼を受け、最初の教会の大切な構成員となっていました。召し使いの中から伝道者に献身する者もいました。


 召し使いはひたすら家の主人に仕えることが求められます。しかし、主人が善良で寛大な主人であればよいのですが、無慈悲な主人、気難しい主人もいました。隣の家の主人と比べては、うちの主人は何と気難しい主人なのかと嘆く召し使いもいました。もうこれ以上、忍耐することなど出来ないと心の中で叫ぶ召し使いもいました。今日で言えば、職場での上司との関係です。職場での苦しみ、上司との人間関係の苦しみです。それに苦しんでいる方もおられるでしょう。


 また、当時の家庭も、今日の日本の家庭のように、妻が教会員、夫は教会員ではない家庭が多かったようです。妻の教会生活に理解を示してくれる夫ばかりとは限りません。日曜日、教会からの帰りが遅くなり、文句を言う夫もいたと思います。教会と夫とどちらが大切なのかと声を荒げた夫もいたと思います。家庭での苦しみ、教会生活を巡る夫との関係の苦しみです。今日、私どもが経験している苦しみです。



②しかし、伝道者ペトロは驚くべきことに、こう語りかけるのです。召し使いたちよ、無慈悲で気難しい主人であっても、主人に従いなさい。妻たちよ、御言葉を信じない夫に従いなさい。聖書は何と、封建主義的な時代遅れのことを語っているのかと思うかもしれません。しかし、聖書が語る家庭訓は、当時のこの世の家庭訓とは異なります。当時のこの世の家庭訓は夫、妻、召し使いという順序です。更に、召し使いは家族に含めませんでした。ところが、聖書の家庭訓は召し使い、妻、夫という順序です。順序が逆転しています。教会の秩序がこの世の秩序とは異なって、革新的であったのです。


聖書の家庭訓の中心にあるものは、愛です。愛の家庭訓です。愛することは、何よりも仕えることです。主イエス自らひざまずき、僕の仕事であった弟子たちの足を洗いました。そして弟子たちに語られました。主人であり、師匠であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。愛をもって互いに仕え合いなさい。私どもは愛することで、相手を支配しようとします。自分に従わせようとします。愛することで高慢になり、礼儀を失い、無作法になります。しかし、主イエスは愛することは仕えることであることを、自ら模範として示されました。


聖書の家庭訓で注目すべきことは、この言葉が繰り返されていることです。「同じように、妻たちよ」、「同じように、夫たちよ」。問題は、何と「同じように」なのでしょう。夫たちよ、妻と同じように仕えなさい。妻を模範としなさい。妻たちよ、召し使いと同じように仕えなさい。召し使いを模範としなさい。召し使いたちよ、主イエスと同じように仕えなさい。主イエスを模範としなさい。


「召し使いたちよ、心からおそれ敬って主人に従いなさい」と呼びかけられます。主人に対して心からおそれ敬ってと理解してしまいます。しかし、ここでは主に対する畏れをもって、主人に従いなさいと理解出来ます。無慈悲で、気難しい主人に仕える苦しみがあります。しかしそこで、主イエスが召し使いの苦しみを担って下さる。その畏れをもって主人に仕えなさい。 


 御言葉に従わない夫であっても、妻がどのような顔で礼拝から帰って来るのか見ています。主を礼拝した喜びの顔で礼拝から帰って来た時、妻の神を畏れる純真な生活、無言の行いが、夫を信仰へ導くようになります。そこでも妻の家庭生活も、苦しみも主が担っていて下さるのです。



3.①伝道者ペトロは語ります。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。


 無慈悲で気難しい主人がいる職場、御言葉に従わない夫がいる家庭。そこに、あなたが是非とも必要だと思い、主がそこに召したのです。遣わしたのです。そこで主イエスが私のために苦しみを担って下さるのだから、愛をもって仕えなさいと勧められるのです。主イエスは私どものために、愛をもって仕える模範を残された。その主イエスの愛の足跡に、あなたも続きなさい。


 私が伊勢の教会にいた時に、名古屋で会議がありますと、北陸から来られた牧師たちは、冬いつもブーツを履いて来ました。名古屋は快晴なのに、何故ブーツを履いて来られるのか、不思議でした。でも、北陸の教会に遣わされて、よく分かるようになりました。北陸の牧師たちは雪の道を歩いて、朝早く出て来られたのだと。雪の朝、誰もまだ足跡がついていないと、うっかり溝に足がはまってしまうことがあります。でも、新聞配達の足跡がついていれば、その足跡に自分の足を重ね合わせれば、安心です。私どもの信仰生活も、それと同じです。主イエスの足跡がない場所はありません。職場において、家庭において、どんな場所で苦しみに直面しても、そこに主イエスの足跡が遺されています。その主イエスの足跡に自らの足を重ねて歩む。そのことを通して、愛をもって仕えることを学ぶのです。古より主イエスの御足の跡を踏み従いて、主イエスに倣う信仰が伝えられて来ました。主イエスに倣うことが、主イエスに学ぶことであるのです。主イエスの足跡に担われて、苦しみの中であっても、愛をもって仕えることを学ぶのです。しかも主イエスの御足の跡を、私一人が踏み従うのではありません。信仰の仲間と共に、支え合いながら踏み従って行くのです。



②次の御言葉は声に出すと分かりますが、リズムを打つ言葉です。


「『この方は、罪を犯したことがなく、その口に偽りがなかった』。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。


 この御言葉は、最初の教会の礼拝で歌われた讃美歌ではないかと言われています。元になった歌があります。その歌が、本日、私どもが聴いたもう一つの御言葉、イザヤ書53章、「苦難の僕の歌」と呼ばれています。やがて来られる救い主は、見るからにみずぼらしく、弱々しい。とても私どもの苦しみから解放し、救ってくれるとは思えない。しかし、この歌で繰り返されていることがあります。


「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み、彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」。


 わたしたちの病、痛み、背き、咎を、この苦難の僕が身代わりとなって負うて下さった。私たちの身代わりとなって、わたしたちが受けなければならなかった神の懲らしめを受けて下さった。彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。


 この「苦難の僕の歌」は、神の民が苦難の歴史の中で、ずっと歌い続けた讃美歌となりました。そしてこの苦難の僕こそ、わたしたちの病、痛み、背き、咎を、十字架で負われた主イエスであると重ね合わせた時、新しい音色の讃美歌が生まれたのです。それがこの讃美歌です。


「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担われた。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるために。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のところへ帰って来た」。


 私どもの愛をもって神に仕え、隣人に仕えることの出来ない罪の傷は、傷によってでしか癒せない。主イエス・キリストが十字架で負われた傷によってでしか、癒せないのです。それ故、魂の牧者である主イエス・キリストの許に立ち帰らなければ、羊である私どもは癒されて歩めないのです。



4.①金沢教会が所属している日本基督教団は、定期的に『教団新報』という広報紙を発行しています。先日、それを読んで驚きました。私と同じ年であった大串肇牧師が逝去されたことを知りました。仙川教会の牧師であり、ルーテル学院大学で旧約聖書の預言書の神学者でもありました。エレミヤ書の註解書を書かれる予定でした。御家族、教会員の皆さまがどんなにか悲しみ、苦しみの中にあることでしょう。お父さまは大串元亮牧師です。親子二代で牧師であり、旧約聖書の預言書の神学者でした。以前、預言書の共著を出版されたことがありました。大串元亮牧師が心筋梗塞のため、救急車で病院に運ばれ、医師から覚悟をするようにと言われた。しかし、二度の心臓の手術によって奇蹟的に助かりました。その体験を基にして、エレミヤ書31章31節以下の御言葉を説き明かされました。


 主なる神は「新しい契約」を私どもと結んで下さる。もはや古い契約のように石の板の上に文字を記すのではない。私どもの心に直接文字を記して下さる。「心」は「心臓」という意味でもあります。エレミヤ書31章の直前で、このような主の言葉が語られています。「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう」。大串肇牧師はこう記すのです。


「あたかも心臓移植するかのように、神の救済のメスが人間存在の奥底に入れられていく。こうして人間の体も心も、神の愛の御手によって、まったく新しい人間に創造されるのです」。


 自らのいのちを犠牲にして、傷をもって傷を癒された主イエス・キリストの十字架の死の出来事は、まさに、心臓の機能を失った私どものために、主イエスご自身の心臓の移植手術が行われた出来事であったのです。主イエスの心臓を移植された私どもは、新しい人間に創造されたのです。苦しみの中にあっても、悲しみの中にあっても、新しい歌を歌う人間とされたのです。


「そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ帰って来られました」。



②お父さんの大串元亮牧師の愛唱讃美歌は、288番でした。東京神学大学の礼拝堂で説教をされた時に、いつもこの讃美歌を選ばれていました。優れた説教者であり、英国国教会からカトリック教会へ転向されたジョン・ヘンリー・ニューマンの作詞の讃美歌です。


「ゆくすえとおく見るを ねがわじ、

 主よ、わがよわき足を まもりて、

 ひとあし、またひとあし、

 みちをばしめしたまえ」。


 お祈りいたします。


「愛することで罪を犯す私どもです。愛することで高ぶり、礼を失い、支配しようとする私どもを、へりくだって仕えられた主イエスの愛によって、打ち砕いて下さい。打ち砕かれた心をもって、愛をもって仕え合う交わりに生かして下さい。主イエスの御足の跡を、ひと足またひと足と、信仰の仲間と共に歩ませて下さい。私どものどんな苦しみをも、主イエスの苦しみに担われていることを知り、召された場所で喜んで歩ませて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。


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