「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」
出エジプト記16:4~16
ヨハネ6:60~71
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年12月31日
①私どもは今、2023年の最後の日、主の日の礼拝を捧げています。年末の礼拝です。この時期に、私どもが生きている社会でよく用いられる言葉があります。それは年忘れ、忘年会です。この一年間の嫌なこと、辛いことを全部忘れて、新しい年を迎えようという意味の言葉です。私はこの言葉を教会で用いる時には慎重であってほしいと言ったことがあります。それは教会の信仰と相容れないことであるからです。旧新約聖書が一貫して語っている信仰があります。それはひと言で言えば、「忘却と想起」です。忘れ去ることと想い起こすことです。この二つのことは一つのことですが、聖書はこのことに対してとても敏感です。
かつて西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、ドイツの40年目の敗戦記念日に、講演をしました。後に「荒れ野の40年」と呼ばれる有名な講演となりました。旧約聖書が語る神の民イスラエルが行った出エジプト後の荒れ野の40年の旅と、ドイツ民族の敗戦後40年の旅とを重ね合わせた講演でした。その中で強調されたことがあります。自分たちが犯した罪を忘れ去ることこそ、大きな罪はない。忘却は罪である。それ故、自分たちが犯した罪を絶えず想い起こす。そしてそこに現された神の御業を忘れることなく、絶えず想い起こす。そこに私ども教会の信仰があるのです。
この一年間、私どもが忘れてはならないことが幾つもあります。ウクライナ、ガザで起きていること、また、私どもの教会で起きたことがあります。5名の教会員、家族が逝去された悲しみ。教会が今直面している伝道の厳しい課題があります。神学校、キリスト教学校、キリスト教施設を含めたキリスト教界全体の力の減少があります。私どもが経験して来た悲しみも苦しみも忘れることなく、心に刻み、そこに現された神の御業を想い起こしながら、新しい年を迎えるのです。
②年末の礼拝に与えられた御言葉は、ヨハネ福音書6章の御言葉です。6章全体が一つの物語となっています。ヨハネ福音書の分水嶺、分かれ目と呼ばれています。ヨハネ福音書は劇で譬えれば、全部で4幕あります。第6章はその第1幕の結びの部分に当たります。しかし、その第1幕は悲しい出来事で幕が閉じられています。主イエスの伝道にとって、とても厳しい出来事が起こりました。弟子たちの多くが主イエスに躓き、もはや主イエスと共に歩まなくなった。残ったのは12の弟子たちだけになった。主イエスと12弟子の交わりは、今日の教会の原型です。教会の分裂の出来事です。主イエスの伝道にとって、大きな痛手となった。主イエスにとって、決して忘れることの出来ない出来事が起こりました。いつも想い起こすべき出来事が起こりました。そして主イエスはこの悲しい出来事に直面して、ただ一つのことを行っています。それは弟子たちの信仰を改めて問い直しました。「あなたがたも離れて行きたいか」。
一体何故、このような悲しい出来事が起きたのでしょうか。その切っ掛けとなった出来事がありました。主イエスが5つのパンと2匹の魚で、5千人の群衆を満腹させました。一人一人が主イエスの祝福に満たされたのです。皆、満足して山から降りて来たのです。ところがその直後に、問題が起こりました。僅か5つのパンと2匹の魚で、5千人の群衆を満腹させた主イエスとは一体何者なのかです。主イエスは誰なのかという一点で、亀裂が生じたのです。
私どもも先週12月24日のクリスマス礼拝、クリスマス祝会、クリスマス讃美礼拝において、豊かな祝福を主から与えられました。コロナ前のように愛餐会は出来ませんでしたが、何よりも聖餐を通して、キリストのいのちに与ることが出来ました。聖餐の食卓を通して、主の恵みを味わうことが出来ました。しかし、その直後の礼拝において、主イエスが私どもに改めて問われていることがあるのです。私どものために聖餐の食卓を備えた主イエスとは、一体何者なのかです。主イエスとは誰なのかと、主の弟子である私ども一人一人の信仰が問われているのです。主イエスへの信仰を明確にすることなしに、主イエスの弟子である私ども教会は年を越せないのです。
2.①主イエスが5つのパンと2匹の魚で、5千人の群衆を満腹させた出来事の後、主イエスと群衆、ユダヤ人たちの間に論争が生じました。論争の論点はただ一つ。このような奇跡を行った主イエスは何者なのかです。5つのパンと2匹の魚を通して、主の恵みを味わった群衆、ユダヤ人たちが求めたものがありました。
「私たちの先祖は荒れ野で、天から降って来たマンナを食べて生きた。私たちにも決して飢えることのないパンを下さい」。
群衆、ユダヤ人たちが求めたものは、パンの問題でした。主イエスが伝道を開始する前に、悪魔から三つの誘惑を受けました。その最初の誘惑が、「石をパンに変えてみなさい。人間が求めているものは、パンなのだ」。言い換えれば、私ども人間はどのようなパン、どのような糧を手に入れたいと願っているかです。いつでも自分の腹を満たしてくれる糧、自分の腹を満足させる糧を手に入れたがっている。自分の手の中で、自由に操れる糧を求めている。「石をパンに変えてみなさい」との悪魔の誘惑に対して、主イエスははっきりと言われました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。神の言葉は、私どもが自分の手の中で自由に操れるものではない。自分の都合の良い糧で腹を満たそうとする私どもの欲望に満ちた腹を、神の言葉は苦い言葉となって切り裂いてしまう力がある。
群衆、ユダヤ人たちが主イエスに求め、期待したことがありました。主イエスが第二のモーセとなることです。荒れ野の40年の旅において、モーセは神に対して呟くイスラエルの民と神との間に立って、執り成しました。「主よ、天からマナを降らせて下さい。私どもを生かすパンを天から与えて下さい」。そしてモーセは神の御心、御言葉を伝える預言者でした。
ところが、主イエスは「私は第二のモーセではない」とはっきりと語っています。そして主イエスはこう語られました。第6章の中心となる御言葉です。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。
主イエスはモーセのように、天の父なる神に向かって、パンを求める執り成し手ではない。主イエス自ら天から降って来られた命のパンである。「わたしは~である」。これはヨハネ福音書で強調される主イエスの言葉です。「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは復活であり、命である」。このような言葉が7回も語られます。また「わたしである」という言葉も5回も繰り返し語られます。これらの言葉は、主イエスが神であることを現す言葉です。ヨハネ福音書が強調するキリスト信仰です。
主イエスはこのように語られました。
「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べるものは死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。
②このような言葉は、ユダヤ人たちが聴いたことのない言葉でした。それ故、主イエスの弟子たちの多くの者が呟きました。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。
「実にひどい話だ」と訳されていますが、言い換えれば、「実にひどい言葉だ」。この「言葉」は、「ロゴス」という言葉が用いられ、この福音書の冒頭で、クリスマスの出来事を語った「ロゴス賛歌」で歌われている言葉です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。
「実にひどい言葉だ」。この「言葉」は、「ロゴス賛歌」で歌われていた、神と共にあった言、神であった言、命の言、人間を照らす光の言、暗闇の中で輝き、暗闇に勝利する言であるキリストそのものを否定する、将にこちらの方がひどい言葉です。
また同時に、主イエスが直前で語られた言葉を受けて、「実にひどい言葉だ」と呟いたとも理解出来ます。主イエスは直前で、どのような言葉を語られたのでしょうか。52節以下の文章は、異なった響きを立てています。それは何故かと言えば、主イエスはこれまで、「わたしが命のパンである」と語られていました。ところが、52節以下では、「命のパン」という言葉を、「わたしの肉」「わたしの血」と言い換えておられるのです。これらの言葉は、聖餐、キリストのいのちに与る時の招きの言葉となりました。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。
誠に生々しい言葉です。それ故、ユダヤ人たち、主イエスの弟子たちが呟いたのです。「実にひどい言葉だ。だれが、こんな言葉を聞いていられようか」。
多くの弟子たちが主イエスに躓き、主イエスの言葉に躓き、もはや主イエスと共に歩まなくなりました。弟子たちの分裂と離脱を経験された。主イエスは誠に厳しい伝道の挫折を味わわれました。
3.①東京神学大学で長く学長をされた松永希久夫先生は、ヨハネ福音書の研究者でした。ヨハネ福音書の註解書を書かれることを目指しておられました。しかし、心筋梗塞のため、ライフワークは中断しました。全4巻を計画していましたが、第1巻のみが出版されました。『ひとり子なる神イエス』。その第1巻の結びが第6章の御言葉でした。第6章の説き明かしで中断しました。それだけに第6章の松永先生の説き明かしには、学者と言うよりも、伝道者としての命が注がれています。松永先生は語られます。
多くの弟子たちが主イエスに躓き、主イエスの許を離れ去って行った。それは同時に、この福音書を記したヨハネが属していたヨハネ教会の現実をも現している。「わたしは天から降って来た命のパンである」と語られた主イエスを神と信じることにより、ヨハネ教会はユダヤ教会から厳しい迫害を受けました。ユダヤ教団は天におられる父なる神のみを神と信じるからです。ユダヤ教会の厳しい迫害によって、ヨハネ教会の中からも離脱者が生じました。
そのような教会の痛み、悲しみが第6章の言葉を通して表されているのです。
12月24日のクリスマス礼拝に、多くの方が主によって招かれ、共に御子イエス・キリストの御降誕をお祝いすることが出来ました。そのことを喜びながらも、いつも想い起こすことがあります。かつて金沢教会で洗礼を受けられ、主イエスの弟子とされ、喜んでクリスマス礼拝に集い、共にクリスマスの讃美歌を歌っていた多くの信仰の仲間の姿が見えなかったことです。教会から離れ、主イエスの許から離れ去ってしまった信仰の仲間が多くいることです。その一人一人の顔を想い起こし、悲しみと痛みが迫って来ました。クリスマスの喜びと悲しみとが交錯しました。
②主イエスは12人の弟子たちに向かって語られました。
「あなたがたも離れて行きたいか」。
主イエスの悲しみと痛みから生まれた言葉です。主イエスが語られた言葉の中で、こんなに悲しみと痛みに溢れた言葉はありません。このようにも言い換えることが出来ます。「あなたがたは離れて行かないだろうね」。シモン・ペトロが12人の弟子を代表して応えました。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。
ペトロの信仰告白です。キリスト告白です。マタイ、マルコ、ルカ福音書には共通の出来事が書き留められています。主イエスがフィリポ・カイザリア地方で、弟子たちに尋ねました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが弟子たちを代表して応えました。「あなたこそキリストです」。ペトロの信仰告白、キリスト告白です。それに代わるペトロの信仰告白が、このヨハネ福音書のペトロの信仰告白、キリスト告白なのです。それだけに重要な信仰告白です。弟子たちの分裂、教会の分裂、弟子たちの離脱という危機的な状況の中にあって、このペトロの信仰告白こそが、主イエスの弟子たちを結び合わせる重要な信仰の告白となったのです。伝道に挫折した主イエスと弟子たちとの新しい一歩となったのです。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。
4.①大阪の森小路教会で生涯一伝道者であった永井修牧師がおりました。学識があり、ユーモア溢れる牧師で、私ども若き伝道者の良き導き手でした。金沢教会の伝道礼拝で説教されたことがありますし、私が以前伝道していた伊勢の教会には度々足を運んで下さいました。
永井修牧師の葬儀の時に、招きの詞として、この御言葉が文語訳で朗読されました。永井修牧師の愛唱聖句であったのです。「ああ、この御言葉が伝道者永井牧師を支えていた御言葉であったのだ」と改めて思いました。
「主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。又われらは信じかつ知る、なんぢは神の聖者なり」。
永井牧師は「宣教」という月刊誌に、12年間に亘り、「キリスト教伝道史・地のはてまで」を執筆されました。それがまとめられ、刊行されたのは逝去後のことでした。その「前書き」は恐らく、死を前にした病室で綴られたものです。伝道者としての伝道心溢れる言葉です。
「北陸学院の前院長番匠鐵雄先生が、鹿児島で伝道しておられたとき、しばしば南西諸島に赴かれた。集会場で松明をもって集まるような僻地である。その宿泊所に、決まって隣の部屋に泊まる人物がいた。富山の薬売りである。先生はそれをみて奮起された。一方は利益を上げる商売のため、一方は値なしに福音を与えるために僻地に赴くのである。
一人の人が信仰をもつのは、それを伝えた人がいるはずである。隣人に対する愛は伝道において極まる。それは隣人に永遠の生命を与える手助けをしているからである。伝道は永遠の生命の献血である」。この隣人に永遠の命の献血をしなければ、この人は死ぬ、滅んでしまう。
いかにも番匠先生らしい伝道者魂溢れる言葉です。「隣人に対する愛は伝道において極まる。伝道は隣人に永遠の生命を与える手助けをする。伝道は永遠の生命の献血である」。この言葉の元になった言葉こそ、この時語られた主イエスのこの言葉です。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。
②今日の御言葉を説教された伝道者に、阿佐ヶ谷教会の大宮溥牧師がおりました。金沢教会の伝道礼拝で説教されたことがあります。神学校を卒業され、新潟の東中通教会へ遣わされた。一人の長老が信徒の代表として牧師交代期の教会の管理責任を担い、教会を整えて、われわれ若き伝道者夫妻を迎えてくれた。ところがその直後に胃癌であることが分かり、手術を受けた。手術中に心臓が止まり、手術のメスを胃から胸に切り上げて、心臓マッサージを施すといいう、緊迫したものとなった。
クリスマスに病室を訪ね、病床聖餐を行った。その時、朗読した御言葉が主イエスのこの言葉でした。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。
その時の病床聖餐の経験を長老はこう語られた。
「手術後間もない時に聖餐に与れて感謝です。クリスマスに神の子イエス様が肉と血を持った人間として、この世に来てくださったことを、本当にありがたく思います。手術を受けて激しい痛みに耐えなければならない今、人間が肉体をもって生きていることを痛切に感じます。そしてイエス様が人間となって、この肉の痛みにのたうつ自分と一つになってくださり、共にいてくださることが、どんなに慰めであり、力であるかを感じます」。
その後、病気が進行して食事ができなくなった時、長老は牧師にこう語られた。
「わたしは肉の糧が取れなくなって、神の恵みだけを食べて生きています。そして切実に『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』と主の祈りを祈っています」。
大宮牧師はこの長老が主イエスのこの御言葉に生きていると、改めて想い起こした。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。
命のパンであるキリストは、私どもが食べても食べなくともよいパンではない。どうしても食べなければならない命のパンである。死に打ち勝つ命のパンこそが、主イエス・キリストなのです。命のパン・キリストによって生かされている私どもは、命を懸けて、命のパン・キリストを伝えるのです。
お祈りいたします。
「私どもが一人も失われることを願われない命のパン・キリストが、天から降って来られ、私どもの口に入り、私ども生かして下さるのです。死を超えて生かす永遠の命のパンです。どうか今、生きることに喘いでいる多くの人々に、命のパン・キリストを伝えるために、私どもを用いて下さい。そのために、生ける主キリストへ新たな信仰の告白によって、私どもの信仰の姿勢を整えさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。