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「お言葉どおり、この身に成りますように」

ヨブ42:1~6
ルカ1:26~38

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年12月1日

00:00 / 37:39

1.①12月を迎え、本日よりアドヴェントに入りました。神の御子イエス・キリストの到来を待ち望む日々を迎えました。今朝も、教会学校の生徒が、クリスマスページェント、キリスト降誕劇の練習をしていました。降誕劇で歌う讃美歌が聞こえて来ました。ああ、クリスマスが近づいているのだな、と改めて実感しました。教会学校の降誕劇は、ガリラヤのナザレという田舎の町で生活していたマリアに、突然、天使ガブリエルが現れ、「あなたは神の御子を宿しました」と、告げる場面から始まります。多くの画家か描いた「受胎告知」の場面です。クリスマスの出来事は、この場面から始まりました。

 何故、マリアが神の御子を宿した女性として選ばれたのでしょうか。何故、他の女性ではなく、マリアだったのでしょうか。マリアは信仰深かったから、品行方正であったから、美しかったから。聖書はそのようなことは一切、語っていません。マリアはどこにでもいるごくごく普通の田舎娘であったのです。ドイツの田舎の教会に行きますと、薪を運んだり、井戸から水を運んだり、家事を手伝うたくましい女性のマリアの像が置かれているそうです。

金沢教会の隣りにカトリック教会があります。カトリック教会は、マリアを特別な存在として崇めます。礼拝堂にマリア像を飾ります。神の御子を宿した聖なる母として崇めます。しかし、私どもプロテスタント教会は、そのようなマリア信仰は持っていません。聖書が語るマリアには、別の福音が示されているからです。

 何故、マリアが神の御子を宿した女性として、神に選ばれたのか。ただ神の恵みによって選ばれたとしか言えません。神は無きに等しい者を敢えて選ばれる。これは旧約、新約聖書を貫く信仰です。それは今、私どもにも起こっているのです。

 

天使ガブルエルとマリアの会話、問答がとても重要です。クリスマスの出来事は何であったのかを表しています。天使がマリアに神の言葉を運び、伝えることから始まります。

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない」。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 教会学校の降誕劇では、歌いながらやり取りをします。

 突然の知らせに、マリアは戸惑い、恐れました。何故、私が神の御子を宿すという重大な役目を担わなければならないのか。私にはとてもそんな重大な役目など担えない。

 マリアはヨセフと婚約をしていました。結婚前に身ごもってしまう。ヨセフとの関係に亀裂が生じます。婚約解消をさせられるかもしれない。村の人々の眼差しが厳しくなります。もうこの村で生活することが出来なくなるかもしれない。マリアにとって神の御子を宿すことは、自らの幸いを手放す厳しい現実を引き受けなければならないことでした。命懸けのことでした。

 マリアには自らのささやかな人生計画、人生設計がありました。大工のヨセフと結婚し、家庭を築き、子どもが与えられ、故郷ナザレで幸いな生活を送ることでした。平凡でも幸いな人生計画でした。ところが、マリアの人生計画に突然、神の御計画が割り込んで来るのです。マリアが予想だにしなかった出来事です。そしてマリアの人生計画を180度ねじ曲げ、神の御計画に

生きるようにされるのです。

 私どもの信仰生活も将にそういう出来事です。私どもは洗礼を受け、主イエスに従う者とされること。私どもが長老、執事、各委員に選ばれ、教会に生きる者とされること。私どもが神に召され、伝道者として遣わされること。

これらは私どもの人生計画にはなかったことです。そこに神の出来事が飛び込んで来るのです。私どもの人生計画が180度ねじ曲げられ、神の御計画に組み込まれて、神の計画に生きる者とされるのです。しかし実は、そこにこそ神が与えられる幸いがあるのです。マリアに起こったことは、私どもにも起こっているのです。


2.①天使ガブリエルとマリアの会話の中で、取り分け重要な言葉のやり取りがあります。

「神にできないことは何一つない」。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

「神にできないことは何一つない」。この御言葉は直訳するとこういう言葉です。

「神においては、その語られた全ての言葉が、不可能ということにはならない」。「神の言葉には不可能ということはない」。「神の言葉」が強調されています。神がマリアに語られた言葉とは、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。神が語られたこの言葉は、不可能ではない。それが「神にできないことは何一つない」です。

 この神の言葉を受けて、マリアは恐れ、戸惑いながら、最後にこのように応答するのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

神が不可能なことはないと語られた神の御言葉に、私は主のはしためとして、全てを委ねます。あなたのお言葉どおり、この身に成りますように。ここにマリアの信仰があります。マリアの信仰告白です。そしてこれこそが、アドヴェントを歩む私ども教会の信仰、信仰告白なのです。

 しかし、ここで大切なことは、マリアの信仰、信仰告白を支えているのは、神の御言葉、神の御業であることです。それがしっかりと受け留められませんと、私どもの信仰は様々な試練に直面すると、揺らぎ、崩れ去ってしまいます。ここで天使ガブリエルが繰り返し語っていることは、神の御業です。

「主があなたと共におられる」。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。「神にできないことは何一つない」。この畳みかける神の御業を受けて、マリアのこの信仰告白が生まれたのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

ある説教者がこの御言葉をこのように説き明かしています。

「われわれに対する慰めの言葉は、多くあるような気がします。病気の時の慰めは、治ります、ということでしょうし、失敗した時には、しっかりやりなさい、といって励ましてもらいたいでありましょう。しかし、どんな時にでも、通用する慰めの言葉は何でしょう。それは、主なる神があなたと共におられます、という言葉ではないでしょうか。病気は思うように治らないかも知れません。治ったとしても、年をとって老いてゆくことを止める方法はありません。成功することもありましょうが、失意の時がないというわけにはいきません。そういう中にあって、嬉しい時にも悲しい時にも、どんな時にでも、力となり慰めとなるのは、この言葉であり、この事実であります。神が一緒にいて下さることを、心の底から信じることができたら、何を恐れる必要がありましょう。神がついているということは、口ではよく言います。しかし、少し恐ろしいことがあると、たちまち消えてしまうのです。しかし、神が一緒にいて下さる、ほんとうに味方である、ということ以上に安心なことは、絶対にないのです。何が起ころうと、これさえあれば、安心であります」。

 神の御子イエス・キリストがあなたに宿ることにおいて、主があなたと共におられる。聖霊があなたを包んで下さる。それ故、恐れるな。

 

3.①神の御子イエスを宿した出来事は、マリアだけに起きた特別な出来事です。しかし、果たしてそうなのでしょうか。マリアに起きた出来事は、私どもにも起きる出来事なのだ、とルカ福音書は告げているのではないでしょうか。ナザレで生活していたごくごく平凡な女性マリアに、神の御子イエスは宿りました。マリアから生まれた幼子イエスは、布にくるまれて飼い葉桶に宿りました。天使は夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに、救い主の誕生をまっ先に知らせました。「布にくるまって飼い葉桶の中に宿った乳飲み子イエス」こそが、「クリスマスのしるし」であることを知らせました。

 私どもが、主イエスこそが私どもの救い主であると信じて、洗礼を受けることは、キリストが私どもの内に宿ることであるからです。キリストが私どもに宿り、私どもと共に生きて下さる。キリストが私を生きて下さるのです。その時、私どもは本当に私らしく生きることが出来るのです。

 クリスマス物語を書き記したのは、ルカです。ルカは伝道者パウロと一緒に、ヨーロッパ大陸にキリストを運び、伝えた伝道者でした。伝道旅行の途中で、ルカはパウロ先生に、クリスマスの物語を何度もしたのではないでしょうか。神の御子イエスがマリアに宿ったこと。マリアから生まれた幼子イエスが飼い葉桶に宿ったこと。それを聞いた伝道者パウロは、こういう御言葉でクリスマスの出来事を言い表しました。コリントの信徒への手紙4章7節以下の御言葉です。329頁。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。

 飼い葉桶に宿った救い主イエス。それは土の器である私どもに救い主イエスの命が宿って下さった出来事です。罪に汚れた土の器です。ひびだらけの土の器です。欠けだらけの土の器です。落としたら、粉々に砕け散る土の器です。罪にまみれた私ども、病を負うている私ども、日に日に衰え老いて行く私ども、苦しみを抱えた私ども。しかし、そのような土の器である私どもの救い主イエスの命が宿って下さった。土の器である私どもを、救い主イエスが生きて下さる。それ故、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。クリスマスの出来事は遠い昔話ではなく、今、私ども一人一人に起こっている出来事なのです。

 

天使ガブリエルとマリアの会話の中で、もう一つ注目したい御言葉があります。

「その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。

 マリアに宿った救い主イエスが、真の王となってこの世界を支配し、その支配は終わることがない、と語られています。これは誠に当時の世界に衝撃を与える御言葉です。ルカはクリスマスの出来事が起きた時、世界の政治情勢から書き始めています。

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」。

 ローマ皇帝アウグストゥスが全世界を支配し、権力を誇示していた時代です。私こそが神の子、救い主、王の中の王であると自負していました。自分が治めている民族を掌握するために、住民登録をするよう命令を下した。ヨセフも身重のマリアも、権力者の権力によって振り回されて、ナザレから先祖の故郷ベツレヘムへ旅をしなければなりませんでした。そしてベツレヘムの馬小屋で、幼子イエスを出産し、飼い葉桶に寝かせました。

 マリアが生きた時代もそうでしたが、今日、私どもが生きている世界も、様々な権力者が自らの権力を誇示し、覇権争いを続けています。ガザで、ウクライナで、住民たちが故郷を追われ、悲劇が起きています。しかし、そのような世界の現実に目を留めながら、この福音書は語ります。

 真の神が真の人となって、私どものところに来て下さった。ごくごく平凡な女性マリアの胎内に宿り、マリアから生まれて、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かされた。私どもよりももっともっと低いところにまで降られた。クリスマスの出来事は辺境の地ガリラヤのナザレ、そしてベツレヘムの馬小屋で起きた。世界の片隅で起きた、誰からも顧みられない小さな出来事であった。しかし、そのような仕方で、真の王が来て下さった。御子イエスにおいて現された神の御支配は終わることはない。

 「その支配は終わることはない」。この御言葉は、私どもが礼拝で唱えている教会の信仰告白である「使徒信条」と並ぶ、大切な信仰告白「ニカイア信条」の信仰の言葉となりました。私どもの目には地上の様々な権力者が派遣争いを続けている悲惨な現実が飛び込んで来ます。しかし、御子イエス・キリストこそ、真の王としてこの世界を支配しておられる。その支配は終わることはない。神の霊的な支配を信じて生きるのです。

 

4.①多くの伝道者がクリスマスの説教をしています。その中で、印象深い説教は、吉祥寺教会で行われた竹森満佐一牧師のクリスマスの説教です。このように語ります。

「クリスマスは、神が地上に橋頭堡をお造りになったと言えます。戦いにおいては、いつでも、敵陣近くに、戦いのための確かな拠点を造らねばなりません。その地点は、敵の銃火にさらされているかも知れませんし、いつ敵に襲われるかも分からないようなところであるかも知れません。しかし、そこが拠点になって、戦いは進められるのであります。したがって、この橋頭堡を造ることが、勝利には、絶対に必要なことになるのであります。クリスマスは、その橋頭堡であります。弱そうに見えるかも知れません。しかし、これができれば、あとは、その勝利を拡げてゆくだけのことであります。

 身を危険にさらすような方法で、救い主はこの世に来られました。だれも知られないような形で、いわば、この世に潜入して来られたのだと言ってもいいと思います。橋頭堡を造ったと言っても、その橋頭堡は、波をかぶり、人びとの中に、埋もれてしまって、まるで見えなくなってしまうような有様でありました。救い主は、こういう形で、お出でになったのであります。人知れずと言うか、人の中に没した形で、救い主が来られたということが、クリスマスの大事なことであります」。

 神の御子イエスが宿られた橋頭堡こそ、マリアの胎内でした。馬小屋の飼い葉桶でした。そして最期には、十字架の上に宿られました。そのようにして、神の御子イエス・キリストは、私どもの橋頭堡となられました。この世の様々な神に抵抗する勢力と戦って下さったのです。

 

アドヴェントになると想い起こすことがあります。伊勢の教会で伝道していた時のことです。伊勢に児童養護施設がありました。母子寮もありました。そこで生活されていた親子がいました。母親は平日に時々、礼拝堂に来られ、いつも涙を流しながら祈られていました。聖書がほしいというので、教会の聖書を差し上げました。誰にも言えない辛いこと、苦しいことを、涙を流しながら神さまに打ち明けておられたのだと思います。仕事をしながら、子育てをし、無理がたたって、30歳の若さで亡くなりました。遺されたわが子はまだ幼稚園年長児でした。その児童養護施設はお寺が経営する施設でしたが、お寺の住職である園長より、教会で葬儀をしてほしいと言われて来たのです。亡くなった方の部屋の机の上に、聖書が置かれていた。教会から届けられた週報、印刷物が置かれていたからです。その遺品から教会に通っていたことを知り、本人の信仰を重んじられました。

 葬儀は職員の仕事が終わった夕べに行われました。涙のアドヴェントの葬儀でした。遺された年長組の園児のけなげなしい姿が、涙を誘いました。お母さんを喪ったことの重大さを受け留められない様子でした。男の子は身寄りの無い身となりました。

 葬儀が終わった次の主の日より、男の子は職員と共に教会学校の礼拝に出席するようになりました。礼拝に出席するとお母さんに会える気がするんだと言っていました。小学生になっても、教会学校の礼拝に出席し続けました。クリスマスになると、キリスト降誕劇をします。彼はいつも配役ではなく、道具係を選びました。舞台に道具を運ぶ役です。ベツレヘムの馬小屋の背景の絵を持ったり、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いがあたる、たき火を運んだりしました。取り分け、クライマックスの馬小屋で誕生した救い主イエスを入れる飼い葉桶は、とても丁寧に運んでいました。

 僕はイエスさまを入れる大切な飼い葉桶なのだ。イエスさまの器なのだ。イエスさまの道具なのだ。イエスさまに用いられる喜びを体で表していました。

 神の御子イエス・キリストがマリアに宿った。飼い葉桶に宿った。それは私ども土の器に宿った出来事です。私ども一人一人は、救い主イエスを宿した器として、道具として用いられるのです。そこに私どもの喜びがあります。

アドヴェントを迎えたこの朝、マリアの信仰告白に、私どもの信仰の告白を重ね合わせるのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 

 お祈りいたします。

「罪に塗れた私どもです。様々な苦しみを抱えた私どもです。しかし、主よ、私どもの内に宿って下さい。マリアに宿り、飼い葉桶に宿った救い主イエスは、土の器である私どもに宿り、私どもを生きて下さるのです。わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。マリアの信仰を受け継ぎ、私どもも救い主イエスを宿した土の器として、道具として、喜んで主に仕えさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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