「あなたは命を選べ」
申命記30:11~20
ヨハネ21:15~19
主日礼拝
井ノ川勝
2024年8月18日
1.①私どもは誰もが、人生という道を旅をしています。旅には目的地があります。その目的地を目指す旅の途中には、予期せぬ出来事が起こります。思い掛けない試練が襲い掛かります。私どもは旅の途中で、立ち往生してしまいます。足取りが重くなってしまいます。
この夏、白山、立山など、山登りをされた方もいるかもしれません。山道を歩きながら、何度も、自分たちが目指す山頂を仰ぎます。また同時に、自分たちが登って来た山道を振り返ります。それと同じように、私どもの人生の道も、信仰の道も、私どもはどこへ向かって旅をしているのか。私どもの旅路を支え、導いているものは何なのか。繰り返し問い続けながら旅をしていると言えます。
②敗戦から79年目の夏を迎えました。敗戦後79年の日本の歩み、世界の歩み、私ども教会の歩みは、果たしてどのような歩みであったのでしょうか。主の御心に適った歩みであったのでしょうか。主の御前で、真実に悔い改める歩みであったのでしょうか。
金沢教会の伝道によって生まれた若草教会の初代の牧師は、加藤常昭牧師と加藤さゆり伝道師でした。お二人共、逝去されました。加藤さゆり伝道師が鎌倉雪ノ下教会で行った説教を三編集めて、伝道説教パンフレットを刊行されています。その中に、申命記の御言葉を説教された「四十年の荒野の旅路」があります。これが伝道説教パンフレットの表題になっています。「四十年の旅路」。
この説教が行われたのは、敗戦から40年目の9月でした。敗戦後40年の旅路と、神の民がエジプトを脱出し、約束の地を目指して行った荒れ野の40年の旅路とを重ね合わせて説教をされています。その頃、中国残留日本人孤児のことが話題となりました。第二次世界大戦下、満州に残された日本人孤児が40年ぶりに、父母と再会しました。しかし、それは一部であり、父母と再会出来ない多くの日本人孤児が中国に残されています。鎌倉雪ノ下教会の教会員の中にも、満州から逃げ延びる途中、只一人のお子さんを亡くされ、小さな亡きがらを燃やし、燃やした骨をその地に残したまま引き揚げられた方もいます。多くの方が身を切られるような苦しみ、痛みを味わいながら敗戦後40年の荒れ野の旅路を歩んで来ました。第二次世界大戦を通して突きつけられた課題を、幾つも背負いながら歩んで来た荒れ野の40年旅路であったと語っています。
2.①今日のアメリカの教会を代表する説教者に、トマス・ロング牧師がいます。今日の申命記の御言葉で説教をされています。説教題は「命を選べ」。その説教の冒頭で、マーティン・ルサー・キング牧師が暗殺される直前に、教会で語った説教、遺言説教を紹介しています。
「私は長く生きたいと思う。長く生きることは大切なことだ。しかし今、私はもうそのことを気にかけない。私は神が望まれる働きをしたいだけだ。神は、この私に、山の頂上に立つことをおゆるしくださった。そして、わたしは、その向こうを見渡し、『約束の地』を見た。私は、あなたがたと共に、その地にたどり着くことはできないかもしれない。しかし私たちは一つの民として、約束の地にたどり着くだろう。この夜、私には不安も恐れもない。私に恐れるべき者などない。私はこの目で、主が来られる栄光を見たのだから」。
キング牧師は明らかに、自らとモーセとを重ね合わせながら説教をしています。主から約束の地に入ることを許されなかったモーセは、ネボ山に登り、約束の地を見渡しながら、120年の地上の人生を閉じました。そのモーセが約束の地を見ながら、神の民に語った遺言説教が、今日の申命記の御言葉です。
②奴隷の家であったエジプトから、主によって導き出された神の民イスラエルは、約束の地カナンを目指して荒れ野の40年の旅を続けました。その旅路の先頭にいつも立っていたのが、モーセでした。今漸く、約束の地の一歩手前まで辿り着きました。目の前のヨルダン川の向こうには約束の地が見ています。後は最後の難所ヨルダン川を渡るだけです。神の民から歓声が上がりました。苦しかった40年の旅路も、乳と蜜の流れる肥沃な地に足を踏み入れるためであったのです。自分たちの苦労が漸く報われようとしています。ところが、モーセは喜び勇んで直ぐにヨルダン川を渡り、約束の地に足を踏み入れようとはしませんでした。
そこで何をしたのでしょうか。荒れ野の40年の旅路を振り返り、想い起こそうとしました。荒れ野の40年の旅路の意味を問い直そうとしました。荒れ野の40年の旅路を導いたのは誰であったのか。自分たちは荒れ野の40年の旅路で、どのような罪を犯したのか。それを悔い改め、主に向きを変えて、主に立ち帰り、神の民として一つとなる。それなくしては約束の地に足を踏み入れることは出来ない。約束の地に入っても、同じ罪を犯してしまう。そこでモーセは荒れ野の40年の旅路を振り返り説教をしました。モーセの遺言説教となりました。それが今日の申命記の御言葉です。
3.①主なる神は語られました。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災い、祝福と呪いをあなたの前に置く」。「危機」という言葉があります。「今の時代は危機の時代である」と言われます。元々は聖書から生まれた言葉です。「分かれ目」「岐路」という意味です。私どもが人生の道、信仰の道を生きる時、必ず別れ目、岐路に直面します。二つの道のどちらの道を選ぶのか、選択を迫られます。
幸いな道なのか、災いの道なのか。命の道なのか、滅びの道なのか。祝福された道なのか、呪われた道なのか。私ども人間の目で見れば、どちらの道も祝福の道に見えるのです。しかし、あれもこれもではありません。あれかこれかです。大切なことは、主の御心に適った道はどちらなのかです。
主は語られます。「あなたは命を選べ。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きることができる」。
「命の道」を選ぶとは、どういうことなのでしょうか。
主は語られました。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される」。
しかし他方でこうも語られます。
「もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる」。
主が繰り返し語られる御言葉の中で、申命記が大切している御言葉があります。
「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得る」。
「あなたの神、主を愛する」。それこそが信仰の旅路の中心に据えられている御言葉です。主を愛する愛が、命の道を切り拓くのです。
②説教の冒頭で紹介した加藤さゆり伝道師の説教「40年の荒野の旅路」。説き明かされた御言葉は、申命記のこの御言葉でした。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。
主イエス御自身も主の道を歩まれる最初に、重んじられた御言葉です。主は日々、天からマナを降らせ、荒れ野の40年の旅を続ける神の民を養いました。しかし同時に、主は日々、御言葉を語られ、神の民を養い導かれました。人はパンだけで生きるのではない。主の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる。主の御言葉が荒れ野の旅を導いたのです。
40年の荒れ野の旅において、あなたの纏う着物は古びず、足が腫れることもなかった。驚くべき言葉です。一枚の着物は何度も何度も縫い直されました。裾も、袖口もすり切れました。親の着物を子どものものに縫い変えました。来る日も来る日も、炎天下の中、荒れ野を歩き続け、足は腫れて、至る所傷だらけで、痛みは癒されませんでした。それなのに、何故、このような御言葉が語られるのでしょうか。「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。主が擦り切れた衣を、何度も何度も、御言葉によって繕い、御言葉の衣を纏わせて下さった。主の愛の衣装です。主が腫れ上がった足を、御言葉によって癒し、主の御言葉が足となって下さった。主の愛の導きです。親がわが子を愛するように、神の民を愛された。ただあなたに対する主の愛の故に、主はあなたを選び、導かれたのです。
モーセが約束の地を前にして、何故、荒れ野の40年の旅路を振り返る説教をされたのか。主の導き、主の御言葉の導きがなければ、荒れ野の40年の旅路は成り立たなかった。荒れ野の只中で倒れて、滅びてしまったからです。それ故、約束の地に足を踏み入れるこの時、私どもの歩みを導かれた主に向
を変え、あなたの神、主を愛し、主の御言葉によって一つとなって歩もう、と決意を新たにしたのです。
4.①モーセが語られた遺言説教の中で、心惹かれる主の御言葉があります。主は語られます。わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しいものでもなく、遠く及ばぬものでもない。主の御言葉は遙か天高くにあるものではない。それ故、天にまで昇って行って、掴み取る必要もない。また主の御言葉は海の彼方にあるものでもない。それ故、海の彼方に渡って、掴み取る必要もない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、あなたは御言葉を生きることが出来る。伝道者パウロがローマの信徒への手紙10章で引用し、重んじた御言葉です。主は日々、私どもの口に御言葉を入れて下さり、私どもを御言葉の命のパンによって生かして下さるのです。
主の戒め、主の御言葉の中心にあるのは、今朝も礼拝で唱えた十戒です。主はモーセを始め、神の民に授けた十戒に込められた主の御心を、この一句で言い表しました。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
主イエスが戒めの中で最も大切な戒めとして、重んじられた御言葉です。ここに、モーセが説教の中で繰り返し語ったこの御言葉が語られています。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。あなたの神、主を愛する愛こそが、命の道を切り拓く。
説教の冒頭で紹介したトマス・ロング牧師の説教「命を選べ」。ロング牧師は説教の中で、この言葉を繰り返し語ります。
「『わたしは命と死をあなたの前に置く』。命とは何でしょうか。命とは、神の意志を行うことです。命とは、あなたの神、主を深く愛し、その意志と命に従って自分を形づくっていくことです。それが、命です。それが、命そのものです」。
②「100分で名著」というテレビ番組があります。私は自分の関心のある書物が採り上げられると、しばしば観ます。5月は、ドイツの作家トーマス・マンの『魔の山』が採り上げられていました。進歩と発展を遂げ、ひたすら上昇気流の道を歩み続けたキリスト教ヨーロッパ文明諸国が直面した魔の山がありました。第一次世界大戦でした。トーマ・マンは最初、他の知識人と同じように大戦に賛同しました。ところが、すぐに終わると大戦は、世界中を巻き込み、泥沼状態に陥り、多くの戦死者を生み出しました。自分たちが歓声を上げて送り出した将来のある若者たちが、無残な遺体となって帰って来た。泣き崩れる両親、友人、恋人たちの涙が乾くことはなかった。
トーマ・マンは『魔の山』を書き始めたのは、第一次世界大戦の前年でした。しかし、完成したのは、第二次世界大戦後、執筆開始から11年後のことでした。最初の構想と随分違ったものとなりました。魔の山理解も大きく変わりました。
今日も私どもが生きる世界の目の前に、魔の山が高く聳え立っています。世界の至る所で戦争が行われています。戦後79年は新しい戦前の始まりであるとも言われています。いつ世界を巻き込む第三次世界大戦が起こるのではないか、との不安と恐れが世界を支配しています。魔の山が私どもの歩む道の前に、高く聳え立っています。この魔の山を乗り越えるためには、高度な知恵を必要とします。真実に、「主を畏れる知恵」が欠かせません。主は語られます。
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災い、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選べ、そうすれば、あなたもあなたの子孫も命を得る」。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守れ、そうすれば、あなたは命を得る」。
5.①甦られた主イエスは、主イエスを裏切り、挫折したペトロを立ち直らせ、主の道を歩ませるために、ペトロの前に立たれ、三度問われました。
「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」。何故、甦られた主イエスは、「あなたはわたしを信じるか」ではなく、「あなたはわたしを愛するか」問われたのでしょうか。主イエスへの愛こそが、死に打ち勝つからです。死、滅び、呪いに打ち勝つからです。主イエスを三度も知らないと告白し、主イエスへの愛を打ち消したペトロ。死の道、滅びの道、呪いの道を突き進むペトロを打ち砕き、立ち直らせるためには、「あなたはわたしを愛するか」との三度の問いかけが必要だったのです。ペトロの再生が神の民の再生にも繋がるからです。ペトロが三度答えました。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。わたしの主を愛する愛は、わたしの内からではなく、ただあなたの愛からのみ生まれて来るものです。
主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちに向かって遺言説教を語られました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。
主イエスは十字架で、自らを裏切ったペトロ、弟子たちのために、友としていのちを注がれ、極みまで愛を注がれたのです。友としての極みまでの愛を注がれたペトロに、甦られた主イエスは三度問われました。
「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」。
主イエスへの愛を造り出し、主イエスを愛し、主の道を歩む命の道を、甦られた主は切り拓かれたのです。私ども神の民が歩む命の道を切り拓かれたのです。「あなたの神、主を愛し、あなたは命を選び、主の道を歩め」。
②約束の地を目の前にし、モーセは荒れ野の40年の旅路を振り返り、遺言説教をしました。しかし、モーセは約束の地に入ることは許されませんでした。荒れ野の40年の旅を先頭に立って導いて来たモーセにとって、誠に厳しい主の計らいでした。モーセに代わって、ヨルダン川を渡り、約束の地へ導くのは、若き指導者ヨシュアでした。モーセの遺言説教の後、ヨシュアの任命が行われました。モーセはネボ山に登り、約束の地を見渡しながら、120歳の主の道の歩みを閉じました。
約束の地、天の故郷を目指し、地上の旅路、主の道を歩む神の民にとって、信仰のバトンを次の世代に受け渡して行くことが欠かせません。そのために一人一人に託された使命、役割があるのです。主から託された自分の役割に一人一人が喜んで徹するのです。そのようにして、主の道を歩む神の民の旅路が、主の御言葉によって導かれるのです。
お祈りいたします。
「あなたは命を選べ。主は今朝も私ども一人一人に、語りかけておられます。あなたの神、主を愛し、命を選び、主の道を歩ませて下さい。そのために日々、主のいのちの御言葉を口に授けて下さい。主の口から出る一つ一つの御言葉によって、私どもを生かして下さい。天の故郷を目指し、地上を旅する私どもは一人で旅をしているのではありません。神の民として、信仰の仲間と愛し合い、祈り合い、助け合いながら歩んでいます。擦り切れた衣装を御言葉によって繕い、腫れ上がった足を主の御言葉によって支え導いて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。