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「新たな使命に生きよ」

創世記28:10~19
ヨハネ4:13~30

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年1月14日

00:00 / 37:37

1.①新しい年は、大きな地震に直面することから始まりました。誰もが思ってもみなかったことでした。大きな揺れがこれまで大切にして来たもの、大切に守って来たものを、根底から覆しました。甚大な被害を及ぼしました。能登の方々、輪島教会に連なる牧師、信徒の方々は、今も尚、厳しい避難生活を強いられています。金沢教会の教会員も能登に親戚、知り合いの方が多くいます。親戚の方が亡くなられた方もいます。家が全壊し、避難生活をされている方もいます。今尚捜索をされている方もいます。一人一人が心痛め、祈りながら日々を過ごしています。

 そのような中で、それに追い打ちを駆ける激震が起こりました。先週の水曜日の夜、長谷川榮さんがお風呂場で倒れ、急逝されました。1月7日の新年礼拝を共に捧げたばかりでした。雪が降る寒い朝でしたが、両手でスティックを突きながら、いつものように礼拝に出席されていました。礼拝後、「長谷川さん、お体くれぐれもお大事にして下さいね」と声をかけますと、「がんばります」と答えて、帰って行かれました。「今年も、礼拝にがんばって出席します」。そのような思いが込められた言葉でした。それが最後に交わした言葉となりました。主日礼拝はライブ配信をしています。体調が悪い時、体が痛む時、家からでも礼拝を捧げることが出来ます。でも、長谷川さんはそれを決してされませんでした。両手でスティックを突いてまで、礼拝堂で礼拝を捧げることを大切にされていました。

 昨年の10月、私の週報ボックスに、長谷川さんからのお手紙が入っていました。冒頭に、「その日の為に」と書かれていたそのお手紙は、自らの人生の歩み、信仰の歩みが丁寧に綴られていました。葬儀で読んでほしい聖書の言葉、歌ってほしい讃美歌が記されていました。その手紙を見て、改めて長谷川さんが一回一回の礼拝を一期一会の思いをもって捧げていたのだと思いました。今朝の礼拝に、長谷川さんのお姿が見られないことは、淋しく、心痛むことです。長谷川さんがこれ程まで礼拝を大切にされていたのは、何故だったのでしょうか。礼拝は神の面前で、神と顔と顔とを合わせることです。そこで神と対話をすることです。主イエスと対話をすることです。自らの死と向き合いながらも、主イエスといのちの対話をする。そのことを何よりも、長谷川さんは自らの人生、信仰生活の中心においていました。

 

②能登半島地震で、今尚、多くの方が厳しい避難生活を続けておられます。先々週、神戸国際支援機構の代表が被災地を訪ね、輪島教会の新藤牧師に案内されて、輪島市内、輪島教会の会堂を周り、被災地の状況を報告した文章を読みました。今、被災地に何が求められているのか。いのちの水、いのちの糧を届けること。それと同時に、被災された方が心の中に溜めておられる地震の恐怖、家族を失った悲しみ、家族との思い出が詰まった家を失った痛み、言葉に出来ない思い。それを災害ボランティアがひたすら心を傾けて聴いて上げる。心の中に溜め込んだ思いを言葉にさせて上げる。涙を流しながらも、心が揺れ動きながらも、言葉として出させて上げる。それをひたすら聴く。いのちの対話こそが、これから求められる大切なことだと報告されていました。

 

2.①この朝、私どもが聴いた御言葉は、主イエスとサマリアの女との対話です。ここに「いのちの対話」があります。私どもが行うあらゆる対話の中心となる対話があります。私どもの日々の生活は、対話によって成り立っています。夫婦の対話、親子の対話、友人同士の対話、職場での対話、更に、国と国との対話、民族と民族との対話という大きな対話もあります。しかし、私どもはしばしば対話で心痛む経験をします。相手の思いを十分に受け留められない。私の言葉が相手に伝わらない。言葉が伝わらないと心が通い合わなくなります。関係が破れてしまいます。修復出来なくなります。そのような悲しみ、痛みを、私どもは日々経験しています。

 主イエスとサマリアの女との対話は、真昼の炎天下、ヤコブの井戸の傍らでなされました。主イエスは旅の最中、シカルというサマリアの町に来られました。旅に疲れ、喉が渇き、ヤコブの井戸に辿り着いた主イエスですが、つるべがないので、井戸の水を飲むことが出来ませんでした。そこにサマリアの女が水を汲みにやって来ました。

「水を飲ませてください」。

主イエスのこの言葉が、対話の切っ掛けとなりました。実は、ユダヤ人とサマリア人とは、元々は同じ民族だったのですが、歴史の悲劇により、対話出来ない関係になっていました。従って、ユダヤ人である主イエスがサマリアの女に話しかけることは、あり得ないことだったのです。しかし、主イエスは対話出来ない関係であっても、主イエスの方から語りかけ、対話の道を拓かれるのです。新たな対話の道を拓いた言葉が、主イエスのこの言葉でした。

「水を飲ませてください」。

何気ない言葉です。しかし、この言葉には様々な意味が込められています。ここで主イエス御自身が、喉が渇いておられるのです。「わたしは渇いている。いのちの水がほしい」と切実に求めておられます。それは同時に、私どもの渇きを、主イエス御自身が知っておられるということです。「あなたは渇いているね。切実に、いのちの水を求めているね」。主イエスは私どもの渇きを知らない方ではないということです。

「水を飲ませてください」。主イエスは井戸の水を汲みに来たサマリアの女に語りかけました。実は、サマリアの女こそ、「わたしは渇いている。いのちの水を切実に求めている」ことを、主イエスは見抜いておられたのです。通常、井戸の水を汲みに来るのは、朝です。水が足りなくなったら、夕べに来ます。真っ昼間に井戸の水を汲みに来る者はいません。しかし、この女は真っ昼間に井戸の水を汲みに来ました。それは他の女性たちと顔を合わせたくなかったからです。そのような事情、痛み、悲しみをこの女は抱えていました。誰にも打ち明けることの出来ない痛み、悲しみがあった。その痛み、悲しみを神の御前に打ち明けさせるために、主イエスはサマリアの女に語りかけたのです。「わたしは渇いている。いのちの水を求めている」。

 

②サマリアの女が心の内に抱え込んでいた痛み、悲しみとは何であったのでしょうか。愛の渇きです。私どもは愛なしに生きることは出来ません。愛され、愛してこそ、健やかに生きることが出来ます。しかし、私どもは愛すること、愛されることにおいて、愛の破れを経験します。サマリアの女も、愛の破綻を経験し、愛の渇きの中にいました。

 主イエスは対話の中で、サマリアの女の愛の渇きに踏み込まれます。女には触れてほしくないものです。心の奥に仕舞い込んでいるものです。しかし、それを神の面前に引き出させるのです。主イエスは語られました。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。

対話を導くのは、終始、主イエスです。サマリアの女は5人の夫を次々と取り替え、今、1人の男と同棲をしています。主イエスはそのことを明らかにされます。誰もが愛することを願い、愛されることを願います。愛なしに生きることが出来ないからです。しかし、私どもは愛することにおいて、罪を犯します。愛することで自己中心的になります。愛することで高慢になります。愛することで相手に対する尊敬を失います。愛することで、相手を自分に従わせようとします。サマリアの女は、愛に破綻し、愛に渇いていました。

それ故、主イエスは語られました。主イエスとサマリアの女との対話の要となる言葉です。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

 女は答えます。

「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」。

 「水を飲ませてください」と語りかけたのは、主イエスでした。ところが、対話を通して、女の方が逆に主イエスに請うているのです。「主よ、渇くことがないように、その水をください」。女は「主よ」と呼びかけています。主客転倒します。その転換点となったのが、この主イエスの言葉でした。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

 今朝も、避難所で、輪島教会の新藤豪牧師と教会員数名が集い、礼拝を捧げています。先週の礼拝で、新藤牧師が読んだ御言葉は、詩編46編でした。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

 わたしたちは決して恐れない、

 地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも

 海の水が騒ぎ、湧き返り

 その高ぶるさまに山々が震えるとも」。

「神はわたしたちの避けどころ」。言い換えれば、「神こそは私どもの避難所」。今、被災地で必要とされているのは、日々の「いのちの水」「いのちの糧」です。しかし、同時に、飢え渇く魂に注ぐ生きたいのちの水です。主イエスが注いで下さる決して渇くことのない、生きたいのちの水です。死を超えて注がれるいのちの御言葉、いのちの霊です。もし輪島教会が無くなってしまったら、魂の渇きを潤す生きたいのちの水を、輪島の被災地の方々に届けることが出来なくなってしまいます。たとえ小さな群であっても、被災地に祈りの群れ、礼拝の群があることが、主イエスから託されたこの使命を担っているのです。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

 

3.①主イエスとサマリアの女との対話は、様々なことが語られながら、一つのことを目指しています。それは神を礼拝することです。主イエスとサマリアの女との間に、見えざる神がおられます。父なる神がおられます。私どもの対話がしばしば行き詰まってしまうのは、二人の間に神がおられることを見失うからです。忘れてしまうからです。対話が行き詰まったら、空気が淀んで来たら、神を見上げ、神から注がれる霊によって深呼吸をし、もう一度対話を始めるのです。

 詩編42編で、詩人がこう語ります。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、

 神よ、わたしの魂はあなたを求める。

 神に、命の神に、わたしの魂は渇く」。

 わたしの魂は涸れた谷のように、カラカラに渇いている。いのちの水が注がれなければ、わたしの魂は滅んでしまう。それを神に向かって叫ぶのです。

 主イエスとサマリアの女が対話をした場所は、ヤコブの井戸の傍らです。創世記に登場する族長ヤコブが掘った井戸です。ユダヤ人、サマリア人の信仰の先祖です。ヤコブは兄エサウが受け継ぐべき長男の祝福を奪い取り、父イサク、兄エサウと対話が出来なくなりました。家族の交わりが持てなくなりました。一人家を飛び出し、旅に出ます。その夜、荒れ野で一人で野宿することになった。深い闇に覆われ、孤独に耐え切れなくなった。しかし、その時、天から梯子が降ろされた。神はヤコブに語られました。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたと約束したことを果たすまで決して見捨てない」。

 ヤコブは神を仰ぎ見、神と繋がっていることを確信しました。そして様々な経験をし、信仰を練り直され、数十年後、神に導かれ、兄エサウと対話をし、和解するために、再び戻って来ます。私の上に神が梯子を掛けて、どんな時にも、私と命の繋がりを持って下さることを信じていたからです。天から梯子を掛けて下さる神が、対立する私と兄エサウとの間に梯子を掛け、対話の道を拓いて下さることを信じていたからです。

 

②主イエスとサマリアの女の対話が、神を礼拝することを目指していた。これは心に留めるべきことです。ユダヤ人とサマリア人はそれぞれ別々の場所に神殿を建てて、礼拝していました。ユダヤ人はエルサレムに神殿を建て、サマリア人はサマリアのゲルジム山に神殿を建て、礼拝をしていました。同じ神を礼拝し、聖書が約束する同じ救い主が来られることを待ち望んでいました。主イエスはサマリアの女に語られました。

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。

 私どもが礼拝とは何かを問いかける時に、中心にある主イエスの礼拝理解です。主イエスは語られます。神を礼拝することは、エルサレム、ゲルジム山という場所を超える。ユダヤ人、サマリア人という民族を超える。どんな場所であっても、誰であっても、神を礼拝することが出来る。神は霊だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。

 サマリアの女は答えます。

「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」。

 主イエスは答えられました。

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。

サマリアの女が待ち望んでいた救い主が来られた。それはサマリアの女と対話をしている主イエス。そして救い主イエスによって、場所を超え、民族を超え、どんな場所でも、誰でも、神を礼拝する道が拓かれた。それは同時に、神を礼拝しながら、神に祈りながら、神が天から掛けて下さる梯子に支えられながら、対話する道が拓かれたことでもあります。

鎌倉の鶴岡八幡宮の参道に、カトリック雪ノ下教会と金沢教会と同じ日本基督教団雪ノ下教会が並んで建っています。双方の教会堂の屋根の上に、ヤコブの梯子が立てられ、そこに十字架が掛けられています。ヤコブの梯子は主イエス・キリストの十字架であることを現しています。天と地を結ぶ橋木、神と私どもを結ぶ梯子は、主イエス・キリストが架けられた十字架である。十字架の上で、主イエスは私どもを代表して、叫ばれました。「わたしは渇く」。そして「成し遂げられた」と語られ、首を垂れて息を引き取られました。ローマの兵士は槍で主イエスの脇腹を刺すと、血と水が流れて来ました。私どもの先頭に立って、「わたしは渇く」と叫ばれた主イエスは、私どものためにいのちを注がれました。血と水を流されました。いのちの水と血を注がれました。私どもを死を超えて生かすいのちの水と血を注がれました。

 

4.①サマリアの女は主イエスとの対話を通して、私どもサマリア人が待ち望んでいたキリストと呼ばれる救い主が、主イエスであったことを知り、水がめをそこに置いたまま、シカルの町に駆け出しました。そして町の人々に叫びました。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシア、救い主かもしれません」。町の人々と顔を合わせられず、対話も出来なかったサマリアの女が、主イエスに押し出されて、町の人々に、「主イエスこそ私どもが待ち望んでいた救い主である」と告げたのです。サマリア人の最初の女性伝道者となりました。町の人々は女の言葉によって、主イエスを信じました。そして犬猿の中であるユダヤ人・主イエスに向かって、サマリアの町に留まるよう頼みました。主イエスはサマリアの町に、2日間留まった。こうして、主イエスによって、サマリア伝道の道が拓かれたのです。

 

②東京の銀座の真ん中に、銀座教会があります。かつて第3主日礼拝に説教をされた伝道者に、渡辺善太牧師がいました。ある女性信徒が、渡辺善太牧師から、「水がめをそこに置いて」という説教を聴いた。御言葉によってガンと頭を殴られ、カット両目を開かれた。礼拝が終わった後、誰とも口をきかず、真っ直ぐに家に帰り、部屋に閉じこもり、説教の言葉を復唱した。サマリアの女にとって、井戸の水を入れた水がめは、自分の生活を支える大切なものです。しかし、その大切な水がめを置いてまで、女は主イエスこそ私どもの救い主であることを、町の人々に告げた。「来たりてみよ、わがなしし事を、ことごとく我に告げし人を」。名もなき賤しい女、町の人々から遠のけられ、対話も出来なかった女。しかし、その女を主イエスは用いられる。「女よ汝の手は生きたる指標なり」。

 この女性信徒は、渡辺善太牧師からこのような説教も聴いた。「水を汲んだ僕らは知らず」という題の説教です。婚宴の席で、お祝いのぶどう酒が尽きてしまった。主イエスは僕らに、空になったかめに水を入れて運びなさいと命じられた。運んでいる途中、水がぶどう酒に変わった。人々は驚いた、しかし、水を汲んだ僕らは知れり。伝道者も信徒も、伝道とは空になったかめに水を入れて、運び続ける存在である。何故、こんな無駄なことをするのか呟きたくなる。しかし、主イエスが水をぶどう酒に変えて下さることを信じて、水の入ったかめを運び続ける。

 そしてまた、大切な水の入った水がめをそこに置いてまで、町に走って行き、人々に告げるのです。「来たりてみよ、わがなしし事を、ことごとく我に告げし人を」。女よ、汝の手は生きたる指標なりと言われる証人となる。私も生けるキリストの証人として、生けるキリストを告げる証言に生きたいと、その女性信徒は文章に綴っています。

 先週、急逝された長谷川榮さん。何よりも礼拝者であることを重んじられました。病を抱えながら、両手でスティックを突きながら、雪の日も礼拝に出席し続けた。水がめを運び続けた。そして水がめを置いてまで、「主イエスこそ永遠の命に至る生ける水。あなたもこの生ける水を飲んで生きなさい」と讃美し続けた。その存在、讃美を通して、汝は生きた指標なりと証しする歩みをされたのです。私どももその後に続くのです。

 

お祈りいたします。

「言葉届かず、心通い合わず、生きた対話が出来ない私どもです。対話を通して、相手を傷つけ、突き放してしまう私どもです。主イエスはこのような私どもと向き合って、対話をして下さるのです。私どもの魂がいかに渇いているか明らかにされます。主よ、どうかいのちの水を注いで下さい。あなたが命を懸けて注いで下さるいのちの水によって、私どもを生かして下さい。神を仰ぎ、神の生ける器として、私どもを用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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