「キリストは私たちのために執り成して」
詩編2:1~12
使徒言行録2:29~36
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年7月30日
1.①夏休みを迎え、中学、高校、大学と、様々なスポーツの大会が行われています。皆さんの中にも運動クラブに入って、スポーツをしている方もおられることでしょう。私は中学生の時、剣道部に入っていました。指導の先生からよく注意を受けたことがあります。君は姿勢が悪い。背筋が伸びていない。前屈みになっている。剣道の基本は姿勢だとよく言われていました。これは全ての競技に当てはまることです。姿勢が崩れていると、よい結果を残すことは出来ません。このことはスポーツだけではありません。茶道、華道、書道にも言えることでしょう。更に、このことは人生においても、信仰生活にも言えることです。
私どもは知らず知らずの内に、生きる姿勢、信仰の姿勢が悪くなっていることがあります。信仰の背筋がいつの間にか曲がってしまっている。真っ直ぐに伸びていないことがあります。そのような私どもが信仰の姿勢を糾し、信仰の背筋をまっすぐに伸ばすのには、どうしたらよいのでしょうか。
②皆さんは、このような経験をしたことがありませんか。世界の片隅で、私が苦しんでいる。心痛めている。悲しみの涙を流している。しかし、ちっぽけな存在である私に、誰も気づいてくれない。誰も私の苦しみ、痛み、悲しみなど分かってくれない。一人闇の中でうずくまって必死に耐える。しかし、そのような時、私が知らないところで、私のことを覚えていて下さる方がいる。私の知らないところで、私のために祈って下さる方がいる。私のために執り成して下さる方がいる。このことを知ったら、私どもの生きる姿勢が変えられるのではないでしょうか。
水野源三というまばたきの詩人がいました。小学生の時、脳性小児麻痺に罹り、体の自由を失いました。しかし、聖書を通してキリストと出会い、まばたきを通して、詩を綴りました。その中に、「不安」という題の詩があります。
「何も聞こえない 夜
何も見えない 夜、闇
主よ、呼んでください、呼んでください
私の名を」。
深い夜の闇の中で、自分の命が呑み込まれてしまうような恐れと不安を感じる。しかし、そこでこそ、主の名を呼び続ける。「主よ、呼んで下さい、呼んで下さい、私の名を」。そのような闇の只中で、ちっぽけな私を覚えて、祈り、私のために執り成して下さる主が、私の名を呼んで下さる。そのような主イエスを知り、主イエスと出会った時に、水野源三さんの生きる姿勢が変えられたのです。
週の初めの日のこの朝、私どもは主に呼ばれて、主の御前に立つことが赦されました。一週間の生活で、いつの間にか崩れた姿勢を、主の御前で整え直していただくのです。自分では気づいていない、曲がった姿勢を、真っ直ぐにしていただくのです。この礼拝において、私どもはどこにまなざしを向けるのでしょうか。天におられる全能の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストにまなざしを向けるのです。そのことを通して、私どもの信仰の姿勢を真っ直ぐにしていただくのです。
主イエス・キリストが今どこにおられ、私どものために、今何をしておられるのか。ここに私どもの信仰の勘所があります。主イエス・キリストは今、天におられる全能の父なる神の右に座しておられる。そこから地上を生きる私どもを支配し、導いておられる。私ども一人一人を覚えて、祈り、執り成して下さっておられる。このような主イエス・キリストを知り、出会った時に、私どもの生きる姿勢、信仰の姿勢が変えられるのです。そして教会は誕生してから今日に至るまで、天におられる全能の父なる神の右におられる主イエス・キリストへの信仰を、地上を生きる私どもの信仰の姿勢を整える上で、大切な信仰として受け留めて来たのです。
2.①間もなく8月を迎えます。今年は4年ぶりに、東京神学大学から神学生を迎え、北陸の諸教会で夏期伝道実習をしてもらう予定です。金沢教会での実習は8月の最後の週となります。今から楽しみです。そのことを心に留めていたら、私自身の神学生時代のことを思い出していました。本日も配布されましたが、「東京神学大学学報」という機関紙があります。当時、「若き後輩諸君へ」という欄があり、伊勢の山田教会の冨山光一牧師が書かかれた文章がありました。私はそこで初めて伊勢神宮の前で伝道している山田教会を知りました。まさか神学校卒業後、山田教会に遣わされるとは思ってもみなかったことでした。
都会からやって来た伝道の一団が、伊勢神宮の前でマイクを片手に、「こんな神さまはうその神さまですと」と大きな声で演説をする。ところが、演説が終わると、すぐに帰って行く。こんな自己陶酔的な伝道をされたら、たまったものではない。教会はこの町にしっかりと腰を据え、この町に生きる一人一人の救いのために執り成し、祈ることが大切である。天から聖霊が注がれ、地上に教会が誕生した時、ペトロは一人立ち上がって説教をしたのではなく、11人の主イエスの弟子と共に立ち上がって、御言葉を語り始めた。ここに教会の姿がある。牧師と共に長老も共に立ち上がり、御言葉を語る。ここに教会の大切な姿勢がある。冨山牧師の文章を通して、私は改めて、教会が誕生した日になされたペトロの説教の重大さを心に留めました。
教会が誕生した日に、ペトロが11人と共に立ち上がり、語った説教の言葉の結びの箇所を、この朝、私どもは聴いたのです。それ以来、教会は御言葉を語る教会として立ち続けて来ました。そしてペトロが語った説教のメッセージを繰り返し語って来ました。ペトロの説教の結びに、このような御言葉がありました。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」。
そしてペトロは詩編110編1節の御言葉を引用します。「主は、(父なる神)は、わたしの主に(主イエス)にお告げになった。『わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするとこまで』」。
そしてペトロはこの言葉で説教を結びました。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのです」。
ペトロの説教で注目すべきは、十字架につけられた主イエス、復活された主イエスだけでなく、天に上げられ、父なる神の右におられる主イエスを強調していることです。主イエス・キリストは今、天に上げられ、父なる神の右におられる。そこから地上に生きる私どもを支配し、執り成しておられる。このことが地上を生きる教会、キリスト者にとって掛け替えのない信仰となったのです。今日の教会がこの信仰を重んじているかどうかが、問われているのではないでしょうか。
主イエスが父なる神の右に座しておられるということは、父なる神の王としての権能を託されているということです。主イエスは真の王として、地上を生きる私どもを支配し、導き、私ども一人一人のために執り成しておられる。
②この朝、私どもが聴いている使徒言行録は、教会誕生の物語、教会の伝道物語が語られています。教会が誕生した日に語られたペトロの説教に続いて語られた説教は、執事であったステファノの説教です。使徒言行録7章に綴られています。実に堂々たる説教です。しかも旧約聖書が語っていることを的確に語り、旧約の時代から一貫してなされて来た神の救いの御業が私どもユダヤ人にあったことを語ります。その神の救いの御業が今や主イエス・キリストにおいて、私どもユダヤ人に与えられたのだと語りました。
ところが、ステファノの説教を聞いたユダヤ人たちは、激しく怒り、歯ぎしりしました。そしてステファノ目がけて石を投げつけました。生まれたばかりの教会の最初の迫害です。そしてステファノは最初の殉教者となりました。ステファノは最後の場面で、聖霊に満たされ、天を見つめていました。その時、天が開いて、主イエスが神の右に立っておられるのを見ました。ステファノは主に呼びかけて叫びました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。主イエスが十字架の上で語られた祈りと重なり合います。
ここで注目すべきことは、ステファノが迫害の只中で、神の右に立っておられる主イエスを見たということです。主イエスは父なる神の右に座ってなどいられない。立ち上がり、身を乗り出し、迫害の中にあるステファノために必死に執り成しておられるのです。
しかし、ステファノを迫害しているユダヤ人には、神の右に立っておられる主イエスが見えなかった。いや、見ようとしなかったのです。
3.①間もなく8月を迎えます。私ども日本人にとって特別な月です。日本が敗戦を経験してから78年目の夏を迎えます。第二次世界大戦は、私ども人類がこれまで経験したことのない悲惨な殺戮を経験しました。多くの尊い命が犠牲となりました。国家と国家、民族と民族が熾烈な覇権争いを繰り広げました。「我こそが強大な王なのだ」と、互いに誇示し合いました。
しかし、戦後78年、覇権争いは止むことはありませんでした。そして今日も、ロシアとウクライナが激しい覇権争いを繰り広げています。また様々な地域で覇権争いが繰り広げられています。「我こそが真の王なのだ」と誇示し合っています。
第二次世界大戦後の1947年、アメリカのプリンストン大学で、ヴィサー・トーフトが講演をしました。トーフトはオランダ出身の、カルヴァンの信仰を受け継ぐ神学者で、当時、スイスのジュネーヴに本部を持つ世界教会協議会の総主事を務めていました。トーフトの講演の題名は、「キリストの王権」、「キリストの王的支配」でした。この講演は第二次世界大戦後の世界の歩み、教会の歩みにおいて、重大な意味を持ちました。
第二次世界大戦において、戦勝国も敗戦国も、多くの犠牲を払い、他国を侵略しながら、「我こそが真の王なのだ」と誇示し合い、熾烈は覇権争いを繰り広げた。しかし、そこで私どもは決定的に大事なことを忘れ、軽んじていた。天の父なる神の右におられるキリストこそ、真実の王であられることを。恐らく、キリストは神の右で立ち上がり、身を乗り出して、地上で争い、罪を重ねる私どものために執り成しておられたに違いない。私どもは真の王であるキリストの御前にひざまずくことを忘れ、疎かにしていた。荒廃した戦後の歩みをどこから始めるべきなのか。真の王であるキリストの御前にひれ伏し、キリストの王的支配に服することにより、私どもの姿勢を糾すことから始めなければならない。
②今日、私どもが用いる大切な言葉に、「デモクラシー」があります。「民衆の支配」という意味です。国家の中心は、自らを王と誇示する指導者ではなく、民衆である。今日の大切な政治形態です。世界の只中に立つ教会は、どのような政治形態を採っているのでしょうか。教会は「デモクラシー」ではなく、「クリストクラシー」と呼ばれています。「キリストの支配」が中心に立つのです。牧師が支配するのでもない。長老が支配するのでもない。キリストが御支配する。キリストの支配の下に、牧師も、長老も、信徒も、喜んで服して行く。それこそが教会であるのです。
今から14年前の2009年、日本にプロテスタントの信仰が伝えられてから150年を記念する、プロテスタント日本伝道150年を迎えました。記念講演をされた加藤常昭先生は、一言こう語られました。教会はキリストのもの。キリストの御支配の下にある。しかし、私どもは牧師の教会、長老の教会として来なかったか。今こそ、教会を神に、キリストにお返ししよう。キリストの御支配に喜んで服そう。キリストの心を心としよう。
今、礼拝を捧げている私どもは、天の父なる神の右におられるキリストの御前にひざまずいているのです。キリストこそ真の王、キリストこそ真の王として御支配なさるお方であると、信仰の告白をしているのです。そして私ども教会はこの世界に向かって、いつも執り成しているのです。私ども教会を通して映し出されるキリストの王的支配を、この世界に映し出しているのです。証ししているのです。キリストこそ真の王、キリストこそ真の王として世界を支配されておられる。どんな強大な権力者も真の王ではない。
4.①あのステファノの迫害の中心的な人物であったパウロは、甦られたキリストと出会い、捕らえられ、キリストを世界の人々に伝える伝道者として立たせられました。そのパウロが、ローマ皇帝が支配し、キリスト者を迫害するローマの教会の信徒へ宛てて手紙を書きました。8章の結びで、讃美歌のように高らかに歌い上げています。
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示される神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
父なる神の右におられるキリストこそ、愛をもって支配する勝利者である。それ故、どんな力も、死の力も、キリストによって示された神の愛から、私どもを引き離すことは出来ない。私どもは生きる時も死ぬ時も、キリストの愛の支配の中にある。
②昨日、教会学校の夏期学校が行われました。主題は、「キリストは教会の頭、私たちはキリストの体に連なる肢々」。この御言葉は、キリストが天に上げられ、父なる神の右に座られることにより、確かなものとなりました。子どもたちの好きな童話に、大男の頭が天に突き出て、胴体は地上にある場面があります。頭であるキリストは天に達しています。しかし、キリストの体は地上にあって、私どもはキリストの体に連なる肢々とされています。天におられるキリストと地上を生きる私どもは、キリストの体にあって一つに結び付いているのです。私ども一人一人はキリストの体に連なる手足となって、頭であるキリストからの御命令に喜んで従うのです。
私の好きな御言葉に、ヨハネ福音書2章の御言葉があります。カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えた主イエスの最初のしるしの出来事です。その中に、このような御言葉があります。「水をくみし僕らは知れり」。
婚礼の席で、お祝いのぶどう酒が尽きてしまいます。世話役をしていた母マリアはお祝いに席に水を差す出来事が起こり、困り果ててしまいます。その時、主イエスは僕らに命じられました。「水がめに水をいっぱい入れなさい。さあ。その水がめを宴会の世話役のところへ運んで行きなさい」。僕らは六つの水がめに水をいっぱいに注ぎ、運んで行きます。重かったことでしょう。しかし、誰一人として主イエスに向かって、不平不満を言うものはいませんでした。「何故、俺たちが水がいっぱいに入った、こんな重い水がめを運ばなければならないのだ。皆が必要としているのは水ではなく、ぶどう酒ではないか」。しかし、水をくみし僕らは知れり。主イエスが水を必ずぶどう酒に変えて下さることを信じ、重い水がめを喜んで運びました。主イエスの御命令を聴き、主イエスの手足となって働くことを誇りとし、喜びとしました。
5.①8月より訪問月間が始まります。金沢教会が大切にしてきた訪問月間です。高齢のため、病気のため礼拝に出席出来ない教会員、長く礼拝から遠のいている教会員を覚えて、訪問したり、電話をかけたり、手紙を書いたりして、連絡し、執り成しを行います。教会員一人一人がキリストの手足となって、喜んで奉仕します。小さな僕としての奉仕の業に喜んで励むのです。私は何も出来ないなと悲観されることはありません。その方を覚えて祈ることも、キリストの手足となって働く大切な奉仕の業です。
私も既に7月より、長老、執事と共に訪問し、教会の祈りと讃美歌を届けました。コロナでまだガラス越しの面会の方もいます。直接お会い出来た方もいます。4年ぶりにお会いした方もいます。そこで感じるのは讃美歌の力です。讃美歌がどんなにか大きな力となり、慰めとなるかです。讃美歌を通して、私どもはどんな時にも、キリストの愛の支配の中にあることを確信するのです。
以前、寝たきりの教会員を毎月訪問しました。毎日、天井を眺めて寝ている。しかし、讃美歌を歌い、キリストのいのち・聖餐であるパンとぶどう汁を口に含ませた時、一筋の涙が零れ落ちました。その時、確信しました。この方は天井を眺めて寝ているのではない。天井を突き抜けて、天の父なる神の右におられるキリストを仰ぎ見ているのだ。キリストが立ち上がり、身を乗り出すようにして、この方のために祈り、執り成されている、その祈りを日々確かに聴かれているのだと。そして日々、この讃美歌を教会の仲間と共に口ずさんでいるのだと。そのようにして信仰の姿勢を日々糾しているのだと。
「死んだ方、否、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座り、わたしたちのために執り成しておられるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方により、勝ち得て余りがあります」。
お祈りいたします。
「私どもが生きる地上には、常に争いがあります。熾烈な覇権争いがあります。私どもの心を高く上げさせて下さい。天の父なる神の右におられるキリストが、真の王として支配し、執り成しておられるお姿を見させて下さい。私どもの信仰の姿勢を糾して下さい。頭であるキリストの体に連なる手足として、キリストに喜んで服し、働く僕として下さい。地上を歩む教会の交わりを通して、王であるキリストの御支配を、この世界に映し出させて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。