「キリストの使者として生きよ」
イザヤ書49:5~9
コリントの信徒への手紙二5:16~6:4a
井ノ川勝
井ノ川勝
2025年3月9日
1.①3月は旅立ちの季節です。高校、大学を卒業され、4月から新しい地で学びを始められる方がいます。新しい地で社会人として歩みを始められる方がいます。新しい地で新しい生活が始まります。今朝の礼拝を最後に、新しい地で歩み出す方がおられます。新たな歩みを始める時に、それをどのように受け留めればよいのでしょうか。私の努力が実って、新しい地で学びが出来る。社会人として歩むことが出来る。そのように受け留めるのか、あるいは、他の視点から、新たな歩みを始めることを受け留めるのかです。聖書はどのように語っているのかです。
先日、金沢教会で長く長老として歩まれた深谷松男長老から、本が贈られて来ました。90歳になり、不治の病を抱えている私の恐らく最後の著書となるだろう。遺書として祈りながら綴った。キリスト者として、法学者として、神の御前で誠実に歩んで来られた日々の祈りから生まれた本です。最後の著書、遺書は「平和論」でした。本の題名は、『21世紀の友に贈る平和へのメッセージ』。「戦争を起こさない世界を作れるか」と、私どもに問いかけています。
長く金沢大学の法学部の教授として、金沢教会の長老として歩んで来られた深谷長老が、金沢の地を去り、仙台の宮城学院の院長として新たな歩みを始められる時に、金沢教会の信徒セミナーで語って来た講演をまとめられ、小冊子を作られました。『生ける石とされて』。その序文で、自らの信仰の歩みを綴っています。仙台の大学で学び、金沢大学の講師となって金沢に移る時、出席していた仙台広瀬河畔教会で送別会を開いて下さった。その席上で、牧師はこう語られた。
「金沢に行くのはこの世の仕事のためと思われるでしょうが、もっと大事なことは、主なる神があなたを金沢に遣わされるのだということです」。この牧師の言葉が、金沢での生活の基本となりました。神が私に使命を託して金沢の地へ遣わされるのだと。
私どもは主から使命を託されて、主に遣わされて生きる存在なのです。この視点こそ、私どもが生きる上で、欠くことの出来ないことなのです。
②この朝、私どもが聴いた御言葉は、伝道者パウロが語った御言葉です。特に、この御言葉に注目したいと思います。
「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」。
私ども一人一人は、伝道者だけでなく、信徒もまた、「キリストの使者」であるのです。「使者」というのは、「遣わされた者」という意味です。「使者」の役目はただ一つです。託された言葉を忠実に届け、伝えることです。キリストによって遣わされた者、それが「キリストの使者」です。キリストから託された福音を伝えために、遣わされた者です。
私どもが主の日毎に捧げている礼拝は、神の招きから始まり、祝祷で終わります。「祝祷」という言葉はしばしば誤解を生みます。私どもが神に祝福を祈り求めるのではありません。神が祝福を宣言されるのです。「あなたがたは神の祝福を受けた」。「あなたがたは神の平安を受けた」。その神の平安、祝福を、あなたがたはキリストの使者として続けるために、この世界に遣わされるのです。それ故、「祝祷」は「派遣」の宣言でもあるのです。甦られた主イエス・キリストが弟子たちに向かって語られた御言葉こそ、祝福の宣言、派遣命令であったのです。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
神を礼拝し、神から祝福、平安を受けた私どもは、キリストの使者として、神の祝福、神の平安を、それぞれ家庭、学校、職場、社会、日本の国、世界、この時代に、遣わされて届け、伝えて行く使命が主から託されているのです。
2.①私どもが生きている世界は、一体どこへ向かおうとしているのでしょうか。日々、国と国、民族と民族との対立、緊張、様々な駆け引きの中にあって、不安と恐れを感じながら私どもは歩んでいます。
先週の木曜日、「輝く瞳の会」が行われました。昨年の12月から行われ、今回が3回目でした。北陸学院第一幼稚園の父母、教会員が共に集い、キリスト教幼児教育を学び、理解を深め、祈る会です。今、幼稚園で生活している子どもたちに、私ども大人はどのような世界を引き渡し、託すことが出来るのでしょうか。平和な世界なのでしょうか。悲惨な争いの世界なのでしょうか。それは私どもの責任でもあるのです。
第二次世界大戦前夜、ドイツではヒットラー率いるナチスが政権を握り、教会までも丸め込み、支配の手を伸ばしました。そのような中で、ナチスに対して抵抗する伝道者、信徒もありました。イーヴァント牧師は、この戦いを、人間の言葉が支配するのか、それとも神の言葉が支配するのか、その戦いとして捉えました。権力者が神の言葉を押しのけて、自分たちが語る言葉で世界を支配しようとするのか、それとも、神の言葉の前でひざまずき、神の御心を尋ね求め、神の御言葉の支配をもたらすのか。
イーヴァント牧師はそのために、主の日の礼拝の説教壇で、神の言葉が語られなければならないと受け留めました。牧師補の研修に力を注ぎました。しかし、ナチスの弾圧を受けて、各地を転々としながら、参考書を手にすることも出来ず、聖書一冊で、牧師補の研修を続けました。その時語られた「説教学講義」があります。緊迫感が伝わって来る講義です。いつ捕らえられ、殺されるか分からない日々にあって、一期一会の思いで講義をしています。そこで決定的な意味を持ったのは、伝道者パウロのこの御言葉でした。
「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」。
イーヴァント牧師は語ります。「神の使者たちが世界のなかに存在することをやめた瞬間、神の言葉は存在することがなくなる」。「教会のすべての秩序が崩れても、われわれは説教しなければならない」。「人間である説教者がいかにして神の言葉を説教することが可能かという問いは、既に神が説教者の手に聖書を与えてくださることによって答えられている。言葉はイエス・キリストにおいて、われわれの中に受肉した。この既に来ている神の言葉を、よ説教者は宣べ伝えなければならない。ただ聖書のなかを生きなさい!そうすれば神の言葉を説教することができる」。
私もいつもイーヴァントのこの言葉を心に刻み、説教の準備をし、説教壇に立ち、御言葉を語っています。キリストの使者として、キリストから託された福音を、存在を懸けて語りなさい。一人一人の魂に、福音を届けなさい。
②伝道者パウロが語る「キリストの使者」。「使者」という言葉は、「全権大使」という意味でもあります。「全権大使」という言葉は、新聞、ニュースでも聞く言葉です。日本が諸外国に全権大使を遣わします。全権大使は遣わされた諸国と、様々な交渉を行います。時には平和か戦争かという緊迫したやり取りをします。交渉が決裂すれば、戦争に突入してしまいます。国家の命運が全権大使の言葉に懸かっているのです。その全権大使が語る言葉は、国家、首相が託した言葉です。国家の全権が言葉に託されているのです。そのような重要な役割を担っているのが、全権大使です。
「わたしたちはキリストの全権大使」。
私どもは、キリストから全権を委任され、キリストの福音を語り、伝えるために遣わされたキリストの全権大使です。驚くべきことです。
私が伊勢の教会で伝道していた時、三重地区の地区会長をしていたことがありました。三重地区の最南端に尾鷲教会がありました。無牧師の時がありました。私と書記が尾鷲教会を訪ねました。伊勢から尾鷲まで、車で二時間もかかります。二山越えて行かなければなりません。役員会と懇談しました。無牧師の時に、教会にとって何が大切なのか。また、新しい伝道者を迎える上で、何を整えなければならないのか。主日礼拝の説教の奉仕を立てるための段取りなど、様々な懇談をしました。懇談会の後、教会の中心となって祈りをもって支えて来られた御婦人の家に招かれました。民宿をされていて、お昼をご馳走になりました。その時、私どもにこう語られました。
「あなたがたは、神さまからのお遣いだからね。このようなもてなしをするのは当然なの」。
普段、あまり聞かない言葉が、新鮮に響いて来ました。「私どもは神さまのお遣いなのだ」。改めて、驚きをもって、自分たちの使命、務めを受け留め直しました。「私どもは神さまのお遣い」。言い換えれば、「わたしたちはキリストの使者」、「キリストの全権大使です」。
3.①「キリストの全権大使」に、主から託された福音とは何でしょうか。伝道者パウロは語ります。
「神は、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。
神が私どもに託されたものは、「和解の言葉」「和解の福音」です。「和解」という言葉は、日々の生活においても、新聞、ニュースでもよく聞く言葉です。戦闘状態にある国と国同士が、和解に向けて対話に対話を重ねます。しかし、お互いの国が相手の攻撃により、甚大な犠牲者が生まれ、被害を受けています。お互いの国が癒されない傷を負うています。なかなか和解のための一致点を見い出すことは困難なことです。幼稚園の園児も、友だちとけんかをして、「あいつが悪いんだ」と、腹を立てます。かっかかっかしながらも、何とかして仲直りしたいと思う。でも、自分の方からは「ごめんなさい」とは言えない。友だちの方から「ごめんさない」と言えば、仲直りしてもよいと思っている。仲直りする、和解するということは、国同士の大きなことから、子ども同志の小さなことに至るまで、難しいことです。和解、仲直りには、痛みが伴います。なかなか和解出来ない、仲直り出来ない痛みがあります。心病んでしまいます。
ここで伝道者パウロが語ることは、国と国、人と人との和解ではありません。神と私どもとの和解です。私どもは人と人との和解を考えたことがあっても、神と私どもとの和解など、真剣に考えたことなどないと思います。神と私どもとの関係が破れているのです。その原因を作ったのは私どもの方なのです。関係が破れているということは、戦闘状態にあると言うことです。このまま放っておいたら、私どもは滅んでしまうのです。
しかし、私どもは神との関係を深刻には受け留めていません。神との関係がどうなろうと、私どもの生活に支障を来すことなどないと思っています。私は私が生きたいように生きるだけと思っています。
国と国同志が和解出来ない。人と人同士が和解出来ない。当事者同士の話し合いではどんどんこじれて解決しない。その時に、仲介者を立てます。和解の仲介者です。お互いの間に入ってもらい。それぞれの悩み、痛みを聞き、執り成して、仲裁してもらいます。神と私どもとの間にも、和解の仲介者が必要なのです。そのお方こそ、神の御子イエス・キリストです。
本来なら、神との関係に破れをもたらした私どもの方から、和解のための一歩を踏み出さなければならないのです。しかし、私どもにはそれが出来ません。それ故、神の方から私どものために、和解の手立てを取って下さいました。伝道者パウロはそのことを、このように語っています。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。
「神の義を得る」とは、神との関係が正しい関係に修復されたということです。主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエス・キリストの十字架の出来事こそ、神と私どもとの和解の出来事だったのです。神が私どものために一方的に行われた恵みの出来事だったのです。伝道者パウロは、主イエス・キリストの十字架の上で起きた和解の出来事を、ローマの信徒への手紙5章1節で、こう語っています。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」。
主イエス・キリストによって神との間に和解が成り立ったということは、神との間に平和が成り立ったということです。それこそが、私どもが生きるための原点であるのです。そして私どもはこの「和解の福音」「平和の福音」を伝えるために、キリストの全権大使として選ばれ、立てられ、遣わされているのです。
②「わたしたちはキリストの全権大使」。主イエス・キリストから「和解の福音」「平和の福音」が託されているのです。伝道者パウロは語ります。
「キリストに代わってお願いします」。
キリストの全権大使であるということは、「キリストに代わってお願いする」と言えることです。「わたしが語る言葉は、キリストがあなたに願っていることです。それを今から、あなたに向かって、わたしが語ります」。「キリストの願い」とは何でしょうか。この一つのことに尽きます。
「神と和解させていただきなさい」。
キリストの全権大使である私どもが語るべき福音は、この一つのことに尽きます。
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。
しかし、既に、主イエス・キリストによって、神との和解がもたらされているのです。神との間に平和が打ち立てられているのです。私どもはただ感謝と喜びをもって、「アーメン」と言って承認すればよいのです。
4.①「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。主イエス・キリストによって、神と和解させていただいた。それは私どもが新しくなることです。伝道者パウロはこのように語っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって」。
私は口語訳に親しんでいます。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている」。
将に、洗礼を受けることは、キリストと結ばれて、キリストによって新しく造り変えられるのです。キリストから遣わされた使者として生きるのです。あなたはキリストによって家庭に遣わされるのです。あなたの家族も、あなたの祈りと福音を必要としているからです。あなたはキリストによって学校に遣わされるのです。あなたの学校も、あなたの祈りと福音を必要としているからです。あなたはキリストによって職場に遣わされるのです。あなたの職場の同僚も、あなたの祈りと福音を必要としているからです。あなたはキリストによって日本に遣わされるのです。あなたが生きるこの日本も、あなたの祈りと福音を必要としているからです。あなたはキリストによって世界に遣わされるのです。あなたが生きるこの世界も、あなたの祈りと福音を必要としているからです。私ども一人一人は、小さな神のお使いかもしれない。しかし、たとい小さな神のお使いであっても、私どもに託された「和解の福音」は、世界を揺るがすほどの大きな福音なのです。
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。神との平和に生きなさい」。
②説教の冒頭で、深谷松男長老の『21世紀の友に贈る平和のメッセージ』を紹介しました。この本の最後で、「よきサマリア人の譬えから学ぶ」という章があります。主イエスが語られた譬え話の中でも、よく知られた譬え話です。追いはぎに襲われた旅人が怪我をして、道に倒れています。しかし、同胞のユダヤ人であった祭司も、レビ人も、倒れた旅人の傍らを通り過ぎてしまった。しかし、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人は、憐れに思って、介抱し、宿屋まで連れて行き、一夜の宿賃を払った。「憐れに思って」という言葉は、「腸ちぎれる程の痛みを伴って」という意味です。主イエスは譬え話の後、こう語られました。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は答えた。「その人を助けた人です」。主イエスは最後に語られた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
深谷長老はこのように綴ります。
「重荷を負うた人に接した時、自分が同じ重荷を負ったと同様に受け止め、できる限りを尽くして助けるそのような愛なのでしょう。自分にとって隣人かどうかは問題ではないのです。しかし、私たちはいつの間にか隣人かどうかを重視します。はっきり言えば、敵か味方かを重視する。そして、無意識のうちに自分にとって利益か不利益かを計算している。日常的にこのように生きている以上、平和の問題は自分に無縁の問題で、時折考えてみる程度のことに終わります。かなり考えるとしても、平和などを論じていても、敵はそんなことを考えていないのではないか。いつ敵の先手攻撃により危険が身近に及ぶか分からないなどの声にかき消されてしまうことが多いのではないでしょうか。
隣人愛は、自分が生きている、いや生かされているこの人生の基盤、すなわちこの人生を与えたもうた神の愛に包まれ、守られていることを覚えるときに、生命あるものになるのです。そして、平和への意志も、この神の愛に包まれていることに平安を覚え、それに感謝することなしには、生命あり、力あるものにはならないのだ、と考えます。それゆえに、人間の罪とその救いの問題を正面から受け止め、謙遜に祈りつつ、その地平から平和の問題につき追求することが肝心なのだと考えています。
神は私たちを愛し、神の愛の業に参加するようにと召し、そのためにこの人生を私たちに信託なさいました。私たちの人生は、神に赦され、神から信託された人生です。神の愛に応えて、等しく赦されている隣人の人間としての尊厳性を尊重しつつ、希望をもって愛の業に奉仕すること、それが、平和を目指す基なのです」。
今朝も、神の御前で、キリストから召しを受けました。あなたはキリストの使者として、キリストの使命を託されて遣わされて生きよ。私どもは祝福の宣言を受けて、キリストの使者として、それぞれの場所に遣わされるのです。一人一人の魂に向かって、和解の福音、平和の福音を伝えるためです。
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。神との平和に生きなさい」。
お祈りいたします。
「神との和解をもたらして下さった主よ、どうか私どもをキリストの使者として立てて下さい。遣わして下さい。主が託された和解の福音を、平和の福音を伝える者として用いて下さい。人と人との破れの中にあって、心痛み、倒れている者がいます。神との関係も破れているのです。どうか私どもがキリストの願いを、キリストに代わって伝えさせて下さい。神と和解させていただきなさい。神との平和に生きなさい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。