「なぜ、われわれは苦しむのか」
ヨブ記1:1~21
ヘブライ2:10~18
井ノ川勝
井ノ川勝
2025年3月16日
1.①先週の3月11日、東日本大震災から14年目を迎えました。各地で犠牲者を追悼する祈りが捧げられました。自分たちが大切にしていたものが、一瞬にして奪われてしまう。家族の命、友人の命、家族との思い出がいっぱい詰まっていた家、想い出の品物、先祖から受け継がれて来た美しい故郷の風景。それらが一瞬にして奪われてしまう。それは耐えられない苦しみです。14年経っても、その苦しみは癒されることはありません。悲しみの涙がなくなることはありません。
私どもが大切にしていたもの、掛け替えのないものが、奪われてしまう。その苦しみ、痛みを、能登半島地震でも経験しました。自然災害だけではありません。ロシアとウクライナとの戦争、イスラエルとパレスチナとの紛争という人的な災害を通しても、味わって来ました。私ども一人一人の人生におきましても、大切な命が奪われる、掛け替えのないものが奪われるという苦しみ、痛み、悲しみを繰り返し味わって来ました。涙が乾くことはありませんでした。
苦しみのない人生は一つもありません。苦しまない人間は一人もいません。私どもが命を与えられて生きることは、苦しみの連続です。幼稚園の園児、子どもたちも苦しんでいます。人生の晩年を迎えた高齢の方も苦しんでいます。生涯、苦しみから解放されることはありません。問題は、日々襲い懸かる苦しみを、私どもがどのように受け止め、どのように向かい合って生きて行くかです。
②聖書の中に、苦しみの問題を真っ正面から受け止めている書物が、ヨブ記です。聖書の中にヨブ記が収められている。これは聖書をどんなにか豊かにしていることでしょう。しかし他方で、ヨブ記は難解で、深遠な書物です。それだけに、日々苦しみを味わう私どもを、繰り返し繰り返しヨブ記へと向かわせるのです。
私が大学生の時、夏休みに入って直ぐに、八ヶ岳の大学の寮で、夏期学校が行われました。毎年、百名の大学生が出席していました。聖書の一つの主題を巡って講演を聞き、語り合う3日間でした。私が大学2年生の夏期学校で、東京神学大学の船水衛司先生が、「人間はなぜ苦しむのか」という主題で、ヨブ記を説き明かされました。船水先生は生涯、ヨブ記の研究に没頭された先生でした。私はその時初めて、ヨブ記に集中して触れる機会が与えられました。その後、伝道者としての召しを与えられました。伝道者として立つことは、苦しんでいる魂に向かって、ヨブ記の御言葉を届けることが大きな課題であると、心に刻んで来ました。
聖書の御言葉を担って歴史を生きた神の民は、歴史の中で繰り返し、「なぜ、われわれは苦しむのか」と、神に問い続けて来ました。土地を満たない神の民は、エジプトで奴隷生活を経験し、エジプトを脱出した後も、荒れ野の40年の苦難の旅を経験しなければなりませんでした。神から与えられた約束の地で、王を立て、国家を樹立しましたが、戦いに敗れ、神を礼拝していた神殿を破壊され、故郷を失い、遠い異教の地で70年間、捕囚生活の苦しみを味わいました。将に、苦難の民でした。日々襲い懸かる苦しみに直面しながら、「なぜ、われわれは苦しまなければならないのか」と神に問い続けました。そのような中から生まれた書物が、ヨブ記であったのです。「なぜ、われわれは苦しむのか」。われわれ人類の問いかけに対し、神が語りかけた御言葉です。
2.①主人公のヨブはユダヤ人ではなく、異邦人です。私ども人類を代表する存在です。人類共通の問題が苦しみであるからです。ユブは無垢で正しく、神を畏れ、悪を避けて生きていました。ところが、そのヨブに、次から次へと災いが襲い掛かります。ヨブは所有していた家畜という財産を、自然災害、人的災害により、一瞬にして失いました。涙が乾かない内に、7人の息子、3人の娘を、自然災害により、一瞬にして喪いました。更に、ヨブは頭のてっぺんから足の裏まで、全身腫れ物ができ、ひどい皮膚病に罹りました。素焼きのかけらで体中をかきむしりました。自らの健康を失いました。人間が生きて行く上で、必要な財産、子ども、健康を、次々と奪われました。幸いな生活から一転して、苦しみのどん底へ突き落とされました。
ところが、ヨブ記は私どものまなざしを一転して、天へ向けさせるのです。天上では神が御使いを招いて会議を開いています。その中に、サタンもいました。サタンも御使いの一人です。神に反抗するへそ曲がりの御使いです。
神はサタンに言います。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。
神はヨブの信仰を絶賛しています。ところが、サタンは神に対して挑戦状を叩き付けるのです。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか」。
サタンのこの言葉は信仰の核心を突く言葉です。ヨブの信仰は利益があるから神を敬っているのだと言うのです。言い換えれば、御利益信仰である。神がヨブの周りに垣根を巡らせ、あらゆる災いから守っている。それ故、ヨブは幸福な生活をしている。そのような御利益があるから、ヨブは神を信じている。神から豊かな恵みを与えられているから、ヨブは神を敬っている。もし、ヨブから大切なものを奪ったら、ヨブはもはや神を信じなくなるだろう。サタンの神への挑戦状です。しかし、神は一貫してヨブの信仰を信頼しています。ヨブは御利益があるから、神を信じているのではない。御利益がなくても神を信じる信仰に生きている。「神の信頼」が「ヨブの信仰」を支えているのです。それが強調されています。私どもの信仰は神の信頼、神の真実によって支えられている。そして神はサタンの挑戦状受けるのです。
②神から与えられた豊かな恵みの中で、何の欠けも、不自由もなく生きていたヨブの生活が一変します。ヨブが大切にしていた掛け替えのない家畜という財産、わが子たち、自らの健康を、次々と奪われて行きます。ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏しました。大切なものを失った悲しみを全身で表しました。しかし、そこでもヨブは神を非難し、罪を犯すことがなかった。ヨブは神に向かって、こう語った。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」。
ヨブの信仰告白です。主は恵みを与える神であり、同時に、大切なものを奪われる神でもあられる。私はどのような時にも、主の御名をほめたたえる。私は何一つ持たないで裸で生まれて来たのだから、何一つ持たずに裸で、神の許に帰って行こう。
ヨブの傍らで、ヨブと共に苦しみを味わっていたのは、妻です。全身ひどい皮膚病で、素焼きのかけらで体中をかきむしり、変わり果てた夫ヨブの姿を見た妻は語りかけました。
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。
私どもが大切にしていたものが次々と奪われても、主は与え、主は奪うと主の御名をほめたたえる夫ヨブを見て、妻は耐えられなくなりました。「なぜ、あんたは無垢、純粋なのですか。こんな耐えられない苦しみを負わせる神を呪って、死ぬ方がましでしょう。自分で命を絶ち、死んだら、苦しみから解放されるでしょう」。妻の言葉は誘惑の言葉です。しかし、ヨブは答えました。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただくのだから、不幸をもいただこうではないか」。
ヨブのもう一つの信仰告白です。ヨブは信仰告白を通して、妻に問いかけています。本当の幸いとは何か。生きる時も死ぬ時も、ただ一つの幸いとは何か。何を手にし、所有しているか、「所有の幸い」では測られない。神から恵みを与えられても、奪われても、神との関係を失わないこと。「関係の幸い」に生きようと招いているのです。
ヨブの二つの信仰告白を通して、ヨブ記は私どもに問いかけているのです。あなたは苦しみと向き合って、どのように生きますか。ヨブは信仰深いから、このような強い信仰に生きることが出来た。私どもの信仰は弱い、とてもヨブの信仰に生きることなど出来ない。そのように諦めてしまうのでしょうか。しかし、ヨブ記は、あなたもヨブの信仰に生きようと、招いているのです。しかし、ヨブの信仰に生きるためには、どうしたらよいのでしょうか。ヨブ記の主題は一方で、ヨブの信仰に生きようです。御利益もないのに神の信仰に生きる。しかし同時に、ヨブ記の主人公は神です。神が神であられることはどういうことかが、大きな主題となっています。
3.①ヨブの物語は、1章2章で終わったのではありません。ここまでが第一幕、序幕です。本格的な物語は3章から始まります。第二幕、本幕の幕開けです。3章以下に登場するヨブは、1章2章に登場した信仰深いヨブとは一転します。激しく神に嘆き、訴えるヨブです。大切なものを奪われたヨブは、その直後は必死に耐えていました。しかし、時間が経つと、喪失感に耐え切れず、神に向かって嘆きが爆発します。
「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子がみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」。
ヨブは自らの誕生日を呪いました。こんな苦しみを味わうなら、私は生まれて来なかった方がよかった。自分の誕生日を呪うことは、私どもの命を造られ、与えられた神の創造の御業を呪うことです。
苦しみに直面し、倒れ伏すヨブを慰めるために、三人の友人がやって来ました。エリファズ、ビルダド、ツォファル。ところが、ヨブの余りにも変わり果てた姿に打ち砕かれ、言葉を失いました。七日七晩、ヨブの傍らに座しても、話しかけることなど出来ませんでした。そして七日後、三人の友人は漸く口を開き、ヨブに語りかけます。ヨブと友人との対話が始まります。それが4章以下で展開されます。第二幕の中心部分です。
私が伊勢で伝道していた時、FEBCラジオ放送で一年間、番組を担当したことがありました。その半期を、「慰めの対話を求めて~ヨブと友人~」という主題で、ヨブ記を説き明かしました。12年前、金沢教会に遣わされ、水曜日の祈祷会で、真っ先に取り上げたのがヨブ記でした。ラジオでの聖書講座を基にして説き明かしました。誰もが苦しんでいる方の傍らに座し、苦しみを何とかして共有しながら、慰めの言葉を語りたいと願います。しかし、私どもが語る言葉は相手の心に届きません。むしろ私どもが語る言葉で相手の心を傷つけることが多くあります。「あなたは私の苦しみなど何も分かっていない」と怒鳴られることがあります。私どもの言葉が何と無力であるのかを痛感します。苦しみを共感することが何と難しいことかを味わいます。三人の友人の言葉も、苦しみの中にあるヨブには届きませんでした。
②三人の友人はヨブの前で、ヨブの苦しみの意味を説き明かしました。三人の友人の苦しみ理解は一つです。因果応報的な苦しみ理解です。ヨブがこのような災い、苦しみを受けたのには、必ず原因がある。原因があるからこのような報いがもたらされたのだ。それ故、苦しみの原因を追及して行くのです。そうすると、ヨブが神に対して罪を犯したということに尽き当たる。友人はそれを理路整然と説明します。ヨブの苦しみを教科書に当てはめて解説します。教理的には正しいことを語っている。しかし、苦しんでいるヨブに寄り添うことをしていない。一人一人の苦しみは異なっており、教科書に当てはめられるものではない。それ故、ヨブの心に慰めの言葉として響かないのです。ヨブは友人に対して語りかけます。痛烈な批判です。
「あなたたちは皆、偽りの薬を塗る、役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す」。
ヨブは神の御前で、無垢で正しく、神を畏れ、悪を避けて生きて来た。神に対して罪を犯したことなどなかった。そのようなヨブが不条理な苦しみを負わなければならない。だから苦しんでいるのです。それ故、ヨブは友人の指摘に納得出来ないのです。
友人が説き明かす因果応報的な苦しみ理解は、今日にも根深くあるものです。ハンセン病が家族の中に見つかると、この病をもたらした原因探しをします。本人が罪を犯したから、あるいは、その家族の先祖に、その家族の中に原因を作ったものがいるから、このような病がもたらされた。苦しんでいる家族に更に苦しみを与え、不幸のどん底へ突き落とします。主イエスは因果応報的な苦しみ理解を断ち切り、その苦しみの只中に、ただ神の栄光が現れるという、新しい苦しみ理解をもたらされました。
三人の友人の後に、もう一人の友人が32章以下に登場します。エリフです。知恵ある若者です。エリフは異なった苦しみを理解します。苦しみの教育的理解です。神は私どもの信仰を教育するために、訓練されるために、苦しみを与えられる。しかし、ヨブはこの苦しみ理解にも納得しません。
4.①ヨブは次第に友人たちの言葉に耳を傾けず、ひたすら神に向かいます。神と法廷で争う姿勢を示します。神を被告席に座らせて、問い詰めることをします。神の胸ぐらを掴んで、何故、私はこのような苦しみを受けなければならないのか、問い詰めます。しかし、ヨブ記において不思議なことは、ヨブの問いかけに、神は一切答えられない。ただひたすら沈黙されています。そのような神が遂に、ヨブに向かって語りかけるのが、38章以下です。第三幕、最終幕です。しかし、更に不思議なことは、神は直接、ヨブの問いかけに答えられていません。「なぜ、わたしは苦しむのか」。「わたしの苦しみ意味は何なのか」。ヨブの問いかけに直接答えられないのです。これがヨブ記の最大の謎です。主はヨブに問いかけます。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」。
ヨブはひたすら神に問い続けて来ました。ところが、神が逆にヨブに問いかけ、答えよと迫るのです。ヨブは問いかける者から、神に問いかけられる者へと転換させられました。これこそが重大な転換です。
主はヨブに問われます。
「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」。
主は改めて、わたしは造り主、あなたは造られたものなのだと語られるのです。主は更に、ヨブに問われます。
「見よ、ベヘモットを」。「見よ、レビヤタンを」。
神が創造された原始の怪物です。口語訳では、河馬とワニと訳していました。神のユーモラスな御言葉です。神が造られた原始の怪物を紹介し、皆、神の経綸の中で生かされていることを告げます。人間が知らない神の創造の御業、神の創造の秩序がたくさんあるのです。そのような神の創造の秩序の中で、ヨブも生かされていることを知りなさいと問いかけているのです。ヨブの苦しみの意味を直接には答えておられません。
②ヨブは神の問いかけの前に、答えます。そして悔い改めます。それが42章です。ヨブ記の最終章です。
「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。
そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。
『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ』。
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
ヨブは今まで、神を耳で聴いていた。知識として頭で理解していた。しかし今は、神をこの目で仰ぎ見ている。神を目で見るとは、神が苦しみを受けている私と共に生きておられることを全身で知ったのです。耳で聴く信仰から目で見る信仰への転換が、神の問われた時に行われた。そこでヨブに
方向転換、悔い改めが起きたのです。
ユダヤ人の精神科医であるフランクルは、ナチスの強制収容所アウシュビッツに収容されました。過酷な苦しみの日々の中で、奇蹟的に生き延びました。その体験を綴ったのが、『夜と霧』です。フランクルはこういう言葉を綴っています。
「われわれが人生の苦しみの意味を問いかけるのではなく、苦しみの人生がわれわれに何を問いかけているかに答えなければならない」。
「問いのコペルニス的転回」と呼ばれています。ヨブ記の42章と響き合う言葉です。われわれが人生の苦しみの意味を問いかけるのではなく、神が苦しみの人生を通してわれわれに何を問いかけておられるのかを聴き、それに応えて生きて行くべきである。
5.①最後にどうしても触れなければならないヨブの言葉があります。ヨブ記の心臓部です。19章23節以下。
「どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように。
わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
神と激しく論争するヨブは、神と私との間を執り成す執り成し手、贖い主を求めます。ヨブが求める贖い主はどこに立たれるのか。ヨブは苦しみの中で灰をかぶりました。その灰の上に立って下さる。苦しみの中に立って下さる。ヨブの皮膚はひどい皮膚病でぼろぼろです。死と向き合っています。しかし、このボロボロの体で、私は贖い主を通して、神をこの目で見る。神を仰ぎ見るのだと語るのです。42章のヨブの言葉を先取りする言葉が語られています。日本基督教団の式文では、この御言葉は葬儀の時に読まれる御言葉として上げられています。
ヨブは神と私とを執り成す贖い主を仰ぎ見ている。ヨブは十字架の主イエスを仰ぎ見る証人とされているのです。
このヨブの言葉と響き合う御言葉が、ヘブライ人への手紙2章14節以下の御言葉です。
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のっために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。・・それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。
主イエスは私どもと同じ血と肉を備え、私どもの兄弟となって下さった。私どもの贖い主として、血と肉をもって十字架にかかられ、御自分の身に、死、罪、咎、苦しみを負うて下さった。御自分の死によって、死を司る者、悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった私どもを解放して下さった。神と私どもの間に立たれた憐れみ深い、忠実な大祭司イエスこそ、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている私どもを助けることがお出来になるのです。
苦しんでいる友のための私どもが出来ることは何か。十字架の主イエスの御前でこそ、苦しみ、嘆く場を備えて上げることです。そこで友と共に、私どものために執り成して下さる十字架の主イエスを仰ぎ見るのです。
お祈りいたします。
「日々襲い懸かる苦しみに直面して、倒れ伏す私どもです。なぜ、私が苦しみを受けなければならないのかと問いかける私どもです。苦しみの意味は分かりません。しかし、苦しんでいる私どものために、十字架で執り成しておられる大祭司イエスを仰ぎ見させて下さい。私どもの死、罪、咎、苦しみを身をもって担われた大祭司イエスに執り成され、歩ませて下さい。苦しみ嘆く友のために、十字架の主イエスの御前に嘆きの場所を備えて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。